法隆寺夢殿の道詮律師像

  法隆寺東院を再興した高僧の肖像

住所

斑鳩町法隆寺山内1ー1

 

 

訪問日 

2008年6月28日、 2019年11月3日

 

 

拝観までの道

JR法隆寺駅北口から徒歩(20分くらい)、または駅南口から「法隆寺参道」行き奈良交通バスが出ている。南口にはレンタサイクルのお店もある。

王子や奈良公園方面からバスの便もある。「法隆寺前」で下車。

 

法隆寺ホームページ

 

夢殿は法隆寺境内の東端、東院伽藍の中心にある八角円堂である。

西院の中門から東へ400メートルくらい、バス停「中宮寺前」からは500メートルくらい。すぐ東が、美しい菩薩半跏像で有名な中宮寺である。

 

夢殿の本尊は聖徳太子等身とされる観音菩薩立像、「救世(くせ)観音」で、堂の中央の厨子中に安置されている秘仏である。

厨子の周囲には、西側(西北隅)に道詮律師像、東側に聖徳太子孝養像と行信僧都像(東北隅)、北側に聖観音像が安置されている。

 

 

拝観料

西院、大宝蔵院と共通で一般1,500円(東院のみの拝観であれば300円)

 

 

道詮像について

道詮(どうせん)の生涯は比較的史料が残り、よくたどることができる。

生年は不詳だが、武蔵国に生まれ、法隆寺、東大寺で活躍。法隆寺東院の復興に尽力し、また大和・平群に福貴寺という寺を建てて隠棲したとされる(現在は廃寺、塔頭の普門院が残るが無住、そばに道詮の墓といわれる石塔が建つ)。873年に死去。晩年、律師に補せられている。

 

道詮像がいつ、だれによって造像されたか、記録は残っていない。個性的な老僧の姿をしていて、決して理想化された像でないことから、道詮本人の特徴をよくつかんで制作された可能性もある。そうであるならば、像の制作年代は道詮の没年前後、すなわち9世紀半ばと考えられる。

平安末期の『七大寺巡礼私記』には、戊亥(東北)隅に道詮と伝える等身比丘坐像が置かれていると書かれているので、少なくともこの時代にはこの像が道詮像であると認識され、現位置に置かれていたことが分かる。

 

なお、夢殿内のもう一体の肖像彫刻の行信は、奈良時代に東院伽藍の造営に功のあった人物であり、夢殿ゆかりのふたりの僧が対のように本尊厨子をはさんで安置されているわけである。ともに90センチ弱とほぼ等身大の坐像である(行信像は奈良時代の乾漆像)。

 

 

拝観の環境

扉口にはられた金網ごしの拝観。やや距離があるが、像の印象はよくわかる。

 

 

像の印象

道詮像は塑像(粘土を材料としている)である。

塑像の彫刻は日本では7世紀後半からつくられ、8世紀、奈良時代に非常に優れた作品が登場した。

一度の彫り誤りが致命傷になるかもしれない木彫に対し、塑像はより自在な作品づくりが可能である。原料が安価であるという利点もある。また、原料の加工から仕上げまで、工房で多くの職人が分担して制作するのに都合がよい技法といえる。他方、重く、また破損しやすいという難点をもつ。このため、平安時代になってからは、まったく作例がないわけではないが、非常に少なくなる。

 

その中で、道詮像は平安時代の塑像の名品といえる。しかしながら、その姿は決して美しくない。一見茫洋とした顔つきのようだが、見ているうちに老いや強い意志が伝わって来て、向き合うとたじろぐほどである。

その顔つきは、額にしわを刻み、眉の下の眼かは大きくくぼんでいる。目、鼻は大きめにあらわされ、特に切れ長の目は印象的である。頬はこけ、口元は引き締められている。

一方、顔の下、衣から覗く胸元は平板である。そして衣には、奈良時代の塑像の名品のような粘るような襞(ひだ)の流れはもはや見られない。

両手は後補。また、彩色も後補である。

 

 

その他

夢殿の本尊救世観音像は、毎年4月11日〜5月18日、10月22日〜11月22日に開帳。

本尊厨子の背面に、もと救世観音像の前立ちとの伝承をもつ聖観音像が立っているというが、北側の扉が閉じているため、その姿はわからない。

 

 

さらに知りたい時は…

『奈良六大寺大観 補訂版3(法隆寺3)」、岩波書店、2000年

『奈良/法隆寺2』(『週刊朝日百科』002)、朝日新聞社、1997年2月

 

 

仏像探訪記/奈良県