室生寺金堂・宝物殿の十二神将像

6躰ずつ安置

金堂
金堂

住所

宇陀市室生78

 

 

訪問日 

2011年4月17日、 2020年11月15日

 

 

この仏像の姿(外部リンク)

女人高野室生寺・御仏と宝物

 

 

 

拝観までの道

近鉄大阪線の室生口大野駅前から室生寺前行き奈良交通バスで終点下車。

途中大野寺(おおのでら)の前を通るので、大野寺の拝観を先にしたときには、その路線の「大野寺前」より乗車すればよい。 

バスの本数はあまり多くないので、事前に調べて行くことをお勧めする。 

 

このバスは、宇陀川の支流室生川にそって南へと向かう。乗車時間は15分くらいだが、次第に山の中へと進み、こうした交通機関がなかった時代にはさぞかし大変な道のりであったろうと感じる。 

下車後、土産物屋などが並ぶ短い参道を過ぎ、室生川に架かる赤い橋を渡るとそこが室生寺の入口である。橋を渡らずにそのまま真っすぐ行くと、室生龍穴神社がある。この地の龍神や水の神への信仰が室生寺建立の原点にあるのかもしれない。 

 

 

拝観料

600円+宝物殿400円

 

 

お寺や仏像のいわれな

別名が「女人高野」であるのは、この寺が真言宗寺院で、かつて高野山が女人禁制であったために、いわばその代わりの参詣地だったことによる。 

しかしこの寺は、奈良時代後期、興福寺系の寺院としてスタートしている。そこへ天台系の仏教が入り、さらに真言宗の力が途中から強まっていったという複雑な歴史をたどった。

 

石段(鎧坂)から金堂を見上げた風景は、古代の山寺の雰囲気をよく残して、とても印象深い。

これを登ると金堂、その左手に弥勒堂、一段上がったところに本堂、さらにその先に五重塔があるが、これらは斜面の地形の中で工夫をしながら配置をされている。要するに、塀の内側に整然と伽藍が並ぶ平地の寺院とは雰囲気がまったく異なっているということである。 

 

金堂はもと根本堂あるいは薬師堂と呼ばれていたが、江戸時代にこのお寺が完全に真言宗の寺院となってのち、金堂とよばれるようになった。正堂(もともとのお堂の部分)の前に礼堂(らいどう、お堂の空間を広げて礼拝や読経するのに都合がよいように設けられた部分)が取り付けられた構造である。

正堂は平安時代初期の建物で、礼堂はその後平安時代中期ごろに加えられ、その後も何度か改造が加えられてはいるが、平安時代前期の山寺のお堂の風をよく残す。

 

金堂本尊は現在の名称は釈迦如来像だが、本来は薬師如来であり、延暦寺根本中堂の薬師像との関連が考えられている。 

 

 

拝観の環境

金堂、弥勒堂、本堂の仏像が拝観できる。これらに加え、2020年9月に宝物殿が開館し、金堂、弥勒堂の仏像の一部が移された。

金堂と弥勒堂は扉口からの拝観、本堂は外陣からの拝観で、いずれも仏像までの距離があるが、各お堂には照明がつけられていて、仏像の印象をよくとらえることができる。

宝物殿は拝観入口と仁王門の間にある納経場や売店の奥に設けられた。展示室は2室で、手前の部屋で仏像と文書類を、奥の部屋には絵画と仏具類を見ることができる。ガラス越しだが透過度が高く、照明も理想的に管理されており、たいへんよく見ることができる。

 

 

仏像の印象

宝物殿の設置の背景には、温暖化の影響によって虫害など仏像にとって有害なことが増加していることがあるのだそうだ。地球環境の変化は文化財の保存にとっても脅威となって迫っている。

しかし、お寺としてはそれぞれのお堂の本尊はやはりそのお堂でまつりたいという思いが強くあったようで、金堂の十一面観音像、地蔵菩薩像と十二神将像のうちの6躰、そして弥勒堂の客仏の釈迦如来坐像、合わせて9躰が宝物殿に移されている。

 

十二神将像はこれまで金堂内に10躰が一列に並び、残り2躰は奈良国立博物館に寄託されていた。宝物殿ができたこのタイミングで博物館寄託の像を戻した上で、金堂と宝物殿に半分ずつ安置することになった。

 

像高は各約1メートル、ヒノキの寄木造、玉眼。鎌倉中期ごろの作とされる。

表面は素地に直接白土を縫って下地とし、彩色を施す(一部漆箔)。本格的な造像では、白土の下にさらに黒漆や布ばりなどを行うのだが、それに対してこの十二神将像は簡素なつくりといえる。

保存状態は全体に良好で、台座もすべて当初のもの(一部には戯画が描かれているものもある)。持物は後補。

伝来は、ある時期に近くの小堂から移されたともいうが、確かなことはわからない。本尊の伝釈迦如来像は本来薬師如来像として造像されたことは確かなので、その眷属として本来この堂のためにつくられたという可能性もあると思われる。

 

本像の魅力は、引き締まった体躯、ポーズがぴしりときまり、それぞれが個性的な姿をしていてかつ全体としてよくまとまっているところにある。

激しい怒りをあらわにしたもの、ややおどけりとぼけたりして見えるもの、大きな動きをあらわした像もある。全体にやや誇張的であるが、不自然、不安定ということはない。しぐさが大きく、また体のひねりがきいている像が多く、これも魅力となっている。安定感と躍動感がともにある。

頭部に標識となる十二支の動物の頭がつく。ただし、子神、辰神は標識を失っているので、厳密にはどちらであるのか不明である。兜を着け、左手を高く上げる像を子神とし、以下、丑、午、申、戌、亥の6躰が金堂に安置される。宝物殿には寅、卯、辰、巳、未、酉の6神将が移されている。

 

宝物殿の6躰の中で最も目を引くのは、未神である。左手をほおに当ててユーモラスな表情をしている上に、体をほとんど半回転させるほどひねっている。巳神は大きく体を開いて左方(向かって右)を向き、開いた左手をおでこの上にあげ、目を細めて遠望するしぐさ。実に生き生きとした姿を見せている。

金堂安置像では、午神はこぶしを握った左手を高く上げて口を開き敵を威嚇する。こわばったような顔つきで強い怒りを表現しているのが印象的である。矢羽根の様子を調べている申神は、腰の動き、顔の傾き、炎髪のなびき方までスパイラルにひねりを入れ、面白い。戌神は異国風の冠を着ける。やや困惑したような表情で、人差し指を立てた左手は何を意味しているのだろうか。

かぶり物をしているのは子神とこの戌神だけで、これは同時代の十二神将像と比べると少ない方かと思う。 

 

 

さらに知りたい時は…

「室生寺金堂十二神将像考」(『Museum』571)、山本勉・浅見龍介、2001年4月

『女人高野室生寺のみ仏たち』(展覧会図録)、東京国立博物館ほか、1999年

『室生寺 山峡に秘められた歴史』、逵日出典、新人物往来社、1995年

『室生寺』(『日本の古寺美術』13)、鷲塚泰光、1991年

『室生寺』(『大和古寺大観』6)、毛利久、岩波書店、1976年

 

 

仏像探訪記/奈良県

宝物殿
宝物殿