如意輪寺の蔵王権現像

  後醍醐天皇の念持仏

住所

吉野町吉野山1024

 

 

訪問日 

2007年10月7日

 

 

 

拝観までの道

吉野の如意輪寺は、金峯山寺、桜本坊などと谷を隔てた東側にある。

如意輪寺を訪れるには、大まかに2通りの道がある。

一つは、近鉄の終点吉野駅から直接歩く方法で、丹治川沿いに登って行き、ハイキングコースに入って如意輪寺へと上がって行く道で、筆者はこのルートを歩いていないが、おそらく40分くらいと思われる。

 

もうひとつは、吉野駅からロープウェー(30分に1本だが、行楽シーズンなどは増便)で吉野山駅へ、そこから金峯山寺や桜本坊などを拝観しながら如意輪寺へと至るルートである。吉野山駅から金峯山寺までが約10分、そこから勝手神社を経て桜本坊までが約20分、さらに下の道へ出て短いトンネルを抜け、そのまま谷を迂回する車道を行くと20分くらいで着く。ロープウェーの吉野山駅から小型の乗り合いバス(ケーブルバス、奥千本行き)が出ていて、「如意輪寺口」バス停(前述のトンネルのあたり)まで乗るとかなり道のりが短縮できるが、バスの本数は1時間に1本である。

 

吉野大峯ケーブル自動車

 

勝手神社から桜本坊の方には行かず左側の道をとり、さらに左折してハイキングコースに入って谷を一度下ってまた登るルートもある(如意輪寺の正面の門に出る道)。

 

如意輪寺ホームページ

 

 

拝観料

400円

 

 

お寺や仏像のいわれ

如意輪寺の創建は平安中期と伝える。

後醍醐天皇の勅願寺となり、以後南朝とのかかわりが深かったので、南朝関係の宝物や史料が多く残り、宝物殿に展示されている。

宝物殿入口正面に、蔵王権現像とその厨子が展示されている。鎌倉時代前期の造像で、後醍醐天皇の念持仏であったと伝えられている。

 

 

拝観の環境

蔵王権現像と厨子は宝物館に入って正面に安置されている。近くまで寄れるが、ガラスごしで、外から入ってくる光が反射し、見づらいのが残念である。斜めにずれるとよく見える。

 

 

仏像の印象

像高は約85センチで、体幹部はヒノキの一木からつくられている。天衣(てんね)は途中で切れてしまっているが、その他の部分は極めて保存状態がよく、彩色もよく残り、火炎光背も当初のものである。厨子の中で厳重に守られてきたからであろう。特に条帛(じょうはく、上半身のたすき状の布)や裙(くん、下半身をおおう布)のきらびやかな彩色はすばらしい。

 

足のほぞから1226年の年と仏師源慶の名前が見つかっている。

源慶は、東大寺南大門金剛力士像吽形像の納入文書中に大仏師湛慶に従う小仏師の筆頭として名が見え、また運慶が主宰した興福寺北円堂諸仏の造像では本尊の弥勒如来像の担当であったことが知られている慶派の実力作家である。

 

本像は、片足で立つ躍動感と忿怒(ふんぬ)の形相から来る迫力を感じさせるが、同時に上品でまとまりのある姿であるといった印象がある像である。まさにこの時期の慶派の特徴をよく表している。

 

 

蔵王権現について

蔵王権現は古くは金剛蔵王(菩薩)といったらしい。仏典にはない、和製の仏である(権現というのだから、神というべきか)。

摂関家の藤原師通(もろみち)の日記『後二条師通記』によれば、1090年、師通は金峯山に詣で、埋経(この頃、弥勒出現の世へと伝えるために経典を埋納することが行われた。こうしてつくられたのが経塚)を終えた後、「蔵王大石」を拝している。この「蔵王大石」はおそらく蔵王権現が姿を現した聖地をさしていると思われるので、11世紀には蔵王権現は吉野の金峯山に出現したという信仰が成立していたことがわかる。

さらに平安末期成立の『今昔物語集』には、金峯山の金剛蔵王は役行者が行い出したものという説話が見える。そののちの時代になると、蔵王権現の姿や出現の状況等、さらに具体的な叙述がなされるようになっていく。

 

1337年の『金峯山秘密伝』は、僧文観(もんかん)が後醍醐天皇に撰上したものと考えられているが、それには次のように描かれる。

役行者の祈りによって釈迦、千手観音、弥勒が次々と現れたが、さらに強大な力で人々を救う仏をと願ったところ、ついに蔵王権現が現れた(これは、蔵王権現は釈迦、千手観音、弥勒すべての化身であるということを意味するものと思われる)。忿怒の形相であるが、同時に青い肉身は慈悲を表す。右手は三鈷杵(さんこしょ)という武器をもち、左手は腰にあてて人差し指と中指を伸ばした刀印(剣印)という印を形作る。頭にも三鈷の冠をつける。目は三眼、髪は逆立ち、右足を大きくあげ、火炎を背負う。

ここに描かれている姿は、如意輪寺の蔵王権現像そのものである。平安時代の蔵王権現像にはやや異なった姿のものがあるが、以後はこの形がスタンダードになる。実際、金峯山寺蔵王堂の本尊像(秘仏の蔵王権現像3躰)を再興する際は、この如意輪寺の蔵王権現像をモデルとしたという記録がある。

 

 

厨子について

この像の厨子は高さ約160センチ。今では像は厨子から出され、隣同士に展示されているが、厨子の中に戻せばおそらく余分な隙間なくぴったりとおさまると思われる。

しかし、厨子と像が造られたのは同時ではない。厨子の底板に銘があり、1336年、つまり像より100年ほど後の作であることがわかる。

 

厨子の奥壁と扉には、吉野の神々が描かれている。吉野曼荼羅である。覗きこむと、天井も美しく模様が描かれているのが見える。扉の4面は四季を表し、また上部には色紙形を設けて文章が書かれているが、これは後醍醐天皇の書と伝える。

この寺と南朝との深い関係、そして1336年という年(天皇が吉野に入り、南北朝時代がスタートした年)を考えると、この厨子そのものが後醍醐天皇の施入であることも考えられる。

 

 

その他

仏師源慶の名前のある足ほぞの銘だが、黒漆塗りをした上に朱書され、その上にさらに黒漆が塗られていたそうである。1985年にX線撮影で発見された。

 

 

さらに知りたい時は…

『金峯山の遺宝と神仏』(展覧会図録)、Miho Museum、2023年

「仏師と仏像を訪ねて3 源慶」(『本郷』136)、山本勉、2018年7月

『日本彫刻史基礎資料集成 鎌倉時代 造像銘記篇』4、中央公論美術出版、2006年

『祈りの道ー吉野・熊野・高野の名宝』(展覧会図録)、大阪市立美術館ほか、2004年

『役行者と修験道の世界』(展覧会図録)、大阪市立美術館、1999年

「吉野・如意輪寺の蔵王権現像」(『仏教芸術』163)、松浦正昭、1985年11月

 

 

仏像探訪記/奈良県