大神神社・玄賓庵・金屋の石仏
大神神社ゆかりの諸尊
住所
桜井市三輪1422(大神神社)
桜井市茅原373(玄賓庵)
桜井市金屋(金屋の石仏)
訪問日
2011年9月18日
この仏像(大神神社大黒天像)の姿(外部リンク)
大神神社の宝物収蔵庫
大神(おおみわ)神社は、本殿を設けず、三輪山そのものをご神体として、その西側に拝殿や鳥居を設ける。古い信仰の形をとどめる神社として名高い。
最寄り駅はJR桜井線の三輪駅。下車後5分ほど歩いて「二の鳥居」へ。ここまでが舗装道路で、その先はうっそうとした木々の中の参道となる。
二の鳥居前に小さいながら駐輪スペースがある。桜井駅北口の駐輪場で営業しているレンタサイクルを使い、そこに置くと便利。
また、土日祝日は桜井駅北口から直通バスがこの二の鳥居前まで来ている。
二の鳥居から参道の坂道を進んで行くと、拝殿の手前、北側に宝物収蔵庫があり、毎月1日と土日祝日に開館している。入館料は200円。
ここには、神宝類、古代の祭祀関係の出土品とともに、大黒天像や乾漆造の聖観音像が安置される。
庫内は明るく、ガラス越しながら、よく拝観できる。
大神神社の大黒天像・聖観音像
宝物収蔵庫は2つの部屋からなっている。
手前の部屋に入ると、数躰の大黒天像が並んでいるのが目に入る。三輪の神が大黒天の姿で影向した(姿を現した)との伝えから、大黒天への信仰が厚く、各時代に像がつくられたためのようだ。
大黒天は大国主神と同体とされ、大神神社では大国主大神像と呼んでいる。
大黒天像は一般に笑顔の神としてあらわされることが多いが、忿怒形の像もある。
大黒天はインドの神が仏教に取り入れられたもので、本来は破壊や戦闘などを司った力のある神であった。仏教に取り入れられてからも、はじめのうちはその恐ろしい性格が引き継がれ、初期の大黒天像は忿怒の形相であらわされた。しかし、この忿怒形大黒天像の遺例は少なく、福岡の観世音寺、奈良の松尾寺などいくつかしか伝わっていない。
大神神社宝物収蔵庫に並ぶ大黒天像うち1躰が忿怒形で、平安時代にさかのぼる古像として貴重である。
約70センチの高さの立像。ヒノキの一木造。
頭巾をかぶり、左肩に袋をかつぐ。右手は指2本を伸ばし、右の脇腹あたりに構える。袴は短く、下肢を出して、右足を一歩前に踏み出す。
顔は忿怒形といっても、怒号するような派手さでなく、眉をひそめて怒りを表す。怒るというよりも、困惑しているような顔つきで、どことなくほほえましくもある。
奥の展示室には、木心乾漆造の聖観音像が展示されている。もと大神神社に伝来し、一時民間に流れ、改めて寄進されたものだそうだ。
像高は約90センチの立像で、やや形式化した様子から平安時代に入っての作と推測される。
体つきはずんぐりしている。全体に厚く乾漆を使い、その保存状態もいい。衣の襞は深く、いかにも乾漆を盛って粘り気のある感じに仕上げている。落ち着いた面相にやわらかなモデリングの体躯で、明るい雰囲気の像である。
玄賓庵について
玄賓庵(げんぴんあん)は真言宗寺院。大神神社から北へ、「山の辺の道」をゆくと徒歩20〜25分で着く。
この道は狭く、自転車の走行は難しい。部分的には人がすれ違うのもやっとというほど狭い道だが、随所に道しるべがあり、安心して歩ける。
仏像の拝観は事前連絡が望ましい。
前もってお願いをしておいたところ、お寺の方が待っていてくださり、本堂の内陣で拝観させていただけた。
拝観料は200円。
玄賓庵は「三輪山」と号し、大神神社との関係の深さを感じさせる。実際、本尊の不動明王像はかつては大神神社の神宮寺本堂にまつられていた像という。
その名前のいわれは、玄賓という僧がここに住んだことにちなむという。
三輪の神と玄賓という取り合わせについては、両者を主たる登場人物とする『三輪』という能がある。
玄賓は奈良時代から平安初期時代を生きた法相宗の高僧であり、天皇に召されて祈願を行い、また、高い位を辞した、遠国に隠遁したことなどが記録に見える。
玄賓庵の不動明王像と大御輪寺について
玄賓庵の本尊は不動明王像である。
その向って左には金剛界大日如来坐像が安置されている。先にこちらの像について述べておくと、像高約90センチ、ヒノキの寄木造、鎌倉時代の作。顔は穏やかで、上半身は大きいが脚部はやや小さくつくられている。
不動明王像は平安時代の作。像高は1メートル弱の坐像、ヒノキの一木造。
実に魅力的な像である。のちの時代のすっきりした風貌のお不動さまとは異なり、古様な力強さがある。
顔は忿怒の形相を強く表わし、上くちびるを大きくつくり、上の歯で下のくちびるを噛む。ごつごつとした筋肉を表わす。ただし、彫りはあまり深くはない。両目とも大きく見開くが、左右対称をややくずし、像に動きを与えている。耳は大きい。
頭髪は大きく、帽子をすっぽりかぶったようだが、重苦しさよりも明るい感じを与えている。頭を巻くバンド(金冠)や、頭頂の大きな蓮花も明るい感じである。
体はかたまりのようで、手足はゆったりと構え、自然な落ち着きをあらわしている。
すでに述べたように、この像は大神神社の神宮寺の旧仏である。
そのお寺は大御輪寺(おおみわでら、だいごりんじ)という名前で、近代初期に廃寺となってしまった。しかしその本堂は現存する。大神神社の二の鳥居の北側に建つ若宮社の本殿がそれである。
建物の中心部は平安時代につくられ、鎌倉時代にそのまわりの部分がとりつけられ、その後も改造が加えられたりしていたが、近年の修復で鎌倉期の姿に戻された。若宮社に詣でれば、木立の奥にすっきりと建つ本殿を見ることができる。
大御輪寺の本尊は、桜井市の聖林寺で拝することができる。奈良時代を代表する仏像としてつとに名高いあの十一面観音像である。そしてその脇仏としてまつられていたのが、今、法隆寺の大宝蔵院に安置されている地蔵菩薩像、そしてこの玄賓庵の不動明王像であったと考えられている(不動明王像に関しては、大御輪寺護摩堂安置仏だったという説もある)。
大神神社から金屋の石仏へ
大神神社へと戻り、「山の辺の道」を今度は南へと向う。玄賓庵への道に比べればこちらはやや道幅に余裕があり、なんとか自転車でも行ける。
途中、平等寺というお寺の前を通る。このお寺は古代草創とも伝えるが、実際には鎌倉時代に慶円という僧によって大神神社の神宮寺として創始されたらしい。それ以前からの神宮寺である大御輪寺をしのぐ勢いであったというが、近代初期にやはり廃寺となってしまった。
現在の平等寺は、それから約100年、1970年代になってかつての広大な寺域の片隅にあたる地に再興されたもので、曹洞宗寺院である。本尊は平安時代の十一面観音像で、秘仏。毎年8月1日に開帳されているそうだ。
平等寺の門前を通って坂を下ると、喜多美術館という私立の美術館の前に出る。そのすぐ前に収蔵庫があり、ここに「金屋の石仏」が納められている。ここまで、大神神社の二の鳥居から800メートルくらい。
この石仏はもと平等寺の前のお堂にあったといい、大神神社や平等寺にゆかりの像でもあったらしい。
収蔵庫の入口から覗く。それほど像まで距離がなく、まずまずよく見える。
自由拝観で、特に拝観料等は設けられていない。
金屋の石仏について
金屋の石仏は、浮き彫りの2躰の如来形立像である。高さ2メートルほどの長方形の石材2枚それぞれに彫られていて、収蔵庫奥に立てかけるようにして並んで安置されている。
向って右側が手を胸前に構える説法印で、釈迦如来像と呼ばれ、左側は施無畏与願印で、弥勒如来像と呼ばれている。
ともに、わずか数センチの高さでの浮き彫りであるが、なかなかみごとに立体感を表す。なで肩で柔らかな体つき、自然な衣文線の素晴らしい石仏である。伝釈迦像は目鼻立ちがくっきりとして落ち着いた顔立ちであることがわかるが、伝弥勒像はやや摩滅が進んでいて残念である。
制作年代は、平安時代とも鎌倉時代ともいわれる。
この石仏は、石棺仏である。
石棺仏とは、古墳の石棺が長い年月の間に表土が流れる等で地表に現れ、それを再利用してつくられた石仏をいう。兵庫県南部地方に多く、そのほかの近畿地方各県でも若干みられる。つくられた時期は平安時代から室町時代に及ぶ。
この金屋の石仏は、大きさから推測して、石棺の脇板として向かい合わせに使われていた2枚の長い石の板を利用しているのではないかと思われる。
よく見ると、端に小さな欠けがあり、これは蓋板を載せるための細工なのではないかと思われる。いや、奈良・十輪院の石龕仏のような大仕掛けの礼拝空間があって、その扉部分なのではないかという説もあるが、それは疑わしい。
いずれにしても、奈良県を代表する浮き彫りの石仏であるといえる。
なお、ここから桜井駅へは、西南方向に約2キロである。
さらに知りたい時は…
『国宝 聖林寺十一面観音』(展覧会図録)、東京国立博物館ほか、2021年
「旧大御輪寺本堂と安置仏像の変遷考」(『仏教芸術』232)、鈴木喜博、1997年5月
『桜井の文化財』、桜井市埋蔵文化センター、1996年
『飛鳥の仏像』、奈良国立文化財研究所飛鳥資料館、同朋舍出版、1983年
『奈良県指定文化財 昭和55年版』、奈良県教育委員会、1981年
「三輪の神と玄賓僧都」(『大美和』61)、池田源太、1981年7月
『石棺仏』、宮下忠吉、木耳社、1980年
『桜井市史』上、桜井市史編纂委員会、1979年
『平安藤原(仏像鑑賞シリーズ)』、太田古朴、綜芸社、1972年
「大神神社大黒天木像について」(『大美和』41)、太田古朴、1971年7月