霊山寺の十一面観音像

  秋の宝物展で公開

本堂
本堂

住所

奈良市中町3879

 

 

訪問日 

2013年10月27日、 2014年3月22日

 

 

この仏像の姿は(外部リンク)

霊山寺ホームページ 堂塔・宝物

 

 

 

拝観までの道

霊山寺(りょうせんじ)は、大和西大寺から近鉄奈良線で西へ3つめの富雄駅で下車。東口駅前1番バス乗り場より若草台行き奈良交通バスで「霊山寺」下車、すぐ。バスは日中1時間に一本程度。

このほか、歩ける距離には「西千代ヶ丘二丁目」バス停もある(近鉄奈良線の学園前駅より、日中1時間4本運行)。

 

奈良交通バス

 

また、富雄駅にはタクシーが常駐する。(お寺の門前にもタクシーがいることが多い)。

 

 

拝観料

500円だが、バラの季節は600円(特別公開があれば別料金)

 

 

お寺や仏像のいわれなど

霊山寺は奈良時代創建といい、本堂は鎌倉時代後期の建築。また平安期の仏像も多数残ることから古代以来の古い寺院であることは間違いないが、記録類は乏しく、寺の歴史はよくわかっていない。

起伏の大きな丘陵地帯にお堂が点在し、本堂南側の高台に建つ三重塔も鎌倉時代の建築で、美しい塔として知られる。その近くに南大門があったらしいが、今は東側に大きな駐車場と拝観入口がある。

 

奈良の寺のなかでも異色のお寺である。入口には大きな鳥居があり、これは本堂本尊とともにこのお寺の信仰の中心となっている弁才天をお祭りする聖域であることを示しているものだそうだ。金箔、プラチナ箔による黄金殿、白金殿などユニークなお堂のほか、バラ園、食堂、「薬師湯」という温泉、北側には大きな霊園もあり、ご信心の方、レジャーの方で賑わう。

かつては興福寺一乗院の子院であったが、近代になり高野山真言宗へ、そして戦後になって独立し霊山寺真言宗を名乗っている。

 

本尊の薬師三尊像は秘仏で、かつては20年に一度の開扉であったそうだが、現在は秋バラのシーズン2~3週間と正月3が日などに開かれる。

ことに秋のシーズンの本尊開扉期間には、「秋薔薇と秘仏宝物展」と銘打ち、本尊厨子の前に普段非公開の仏像が安置されて拝観できるので、この時期(2013年の場合、10月23日から11月10日までの期間だった)に行くのがお勧めである。

 

 

拝観の環境

特別公開期間は、本堂の内陣で拝観させていただける。

 

 

仏像の印象

秋のシーズンに特別公開される仏像の中で、本尊厨子前の中央に置かれる十一面観音像はことにすばらしい。

 

檀像様の彫刻である。9世紀ごろの作(8世紀末すなわち奈良時代末期までさかのぼる可能性もあるか)。

一般的に檀像は、檀木を用いた一木造の仏像で、基本的に着色をしない素木のつくりであり、細密な彫りによる比較的小さな像をいう。

本像はカヤと思われる針葉樹よりつくられているので、代用となる木材を用いて日本でつくられた像であり、彫りは細密というほどでなくとも十分に精緻な冴えを見せる。代用材檀像の名品である。

像高は約80センチの立像で、内ぐりはほどこさない。今は台座とは別であるが、もとは台座蓮肉まで一材であったと思われる。後補部は、左手、右手の指の一部、頭上面の一部など。また垂下する天衣などは失われている。

 

この像の雰囲気は独特である。霊威に満ち満ちていると言うべきであろうか。

顔は大きく、体躯は詰まり、手も短い。頭上面も大きいために、頭部全体では全身の3分の1ほどにも感じる。

顔の表情も大変力がこもる。決して似てはいないが、その雰囲気は神護寺薬師如来像に通じるものがあるように思う。

目はつり上がり気味で、しっかりと見開き、切れ長である。鼻から眉にかけてのラインと上まぶたの間に強く段をつけ、鼻の下の人中は深く、あごも強く前に出す。鼻から口、また頭と胴は微妙にまっすぐでなく、それがまた存在感の強さに寄与している。

下肢は翻波式衣文を刻む。大波は丸い紐状に、その間の小波はしのぎ立てる。両足間の裙の打ち合わせの曲線も魅力的である。

肩の髪は、一部乾漆を用いている。

 

 

本尊の薬師三尊像とその左右の安置仏について

厨子中の薬師三尊像は、像内の銘記から1066年の作ということがわかっている。11世紀なかば、つまり定朝の活躍期の直後の造像ということになる。力強さを感じる顔立ち、ぼってりとした体躯、緊張感をはらんだ脚部など、定朝様式以前の仏像の系譜を引いているように感じられる。

脇侍像も優美さよりも神秘的で古風な印象がある。

三尊とも板の光背であるのも、室生寺金堂の諸像など大和の古い仏像の流れを汲んでいるように思われる。

 

割矧ぎ造で、像高は中尊が約60センチの坐像、脇侍が約90センチの立像。

それほど大きな像ではないが、3躰で厨子はいっぱいいっぱいの感じであるが、この厨子は本堂と同じ鎌倉後期ないしやや下った時期のもの。扉に聖徳太子像と僧形像(寺伝では行基像)を描いている。

あまり大きな像でなく、また拝観位置からはやや距離があるので、肉眼で細部までよく拝観するのはやや難しい。

 

本尊厨子の左右には、十二神将像、その後ろに多聞、持国の二天像が安置される。

後列ほど高い位置に安置されるように工夫されているが、重なり合って、一躰ずつをよく見るのはなかなか難しい。斜めからも拝観できるので、いくつかの像はよくわかる。

これらの像は本堂がつくられた鎌倉後期の造像と思われる。

十二神将像は、像高75~80センチの寄木造で、玉眼。動きにはぎこちなさがあるものの、逆立てた髪、怒りでゆがめた目の形や顔のごつごつした筋肉など、面白い造形。

持国天、多聞天とある二天は、本来は大仏殿様四天王の持国天、増長天像であったのかもしれない。像高約120センチ、ヒノキの寄木造。

 

 

その他の像について

秋の特別公開として本尊厨子の前の列に安置されるのは、上で紹介した十一面観音像のほか、毘沙門天像と四天王像である。

加えて地蔵菩薩像も並んで安置されているが、本像については近年はじまった「大和地蔵十福霊場」の巡拝の対象として、本堂に常置しているとのこと。像高約80センチ、ヒノキの寄木造で、鎌倉時代後期の作。彩色や截金が美しく、穏やかな顔つき、体の動きが優美な像。

 

毘沙門天像は像高約70センチ、キリの割矧ぎ造という。近代初期の廃仏から救われ、当時の住職の念持仏となっていたそうだ。体をくの字にして、大きな動きを出そうとしているが、それが力強いというよりは微笑ましく感じられる。

平安時代末期ごろの作で、鎌倉期の勇壮な天部像と比べてしまうとつい物足りないようにも思えるが、なかなか趣ある像である。彩色もよく残る。

 

四天王像は像高約30センチ強の小像で、東大寺大仏殿様の像である。彩色がよく残る。三重塔内の安置仏で、南北朝時代の1356年に唐招提寺の長老を導師として供養された像であると、台座内銘文より知られる。

 

内陣と外陣とをわける透かし格子の中央に大きな薬師三尊懸仏がかけられている。本尊が秘仏であるので、前立ちの意味でここにかかげられているのであろう。背面に銘文があるそうで、南北朝時代の1366年の造立と知られる。懸仏の基準作例として貴重な作品である。

このほか向かって左奥(外陣の西北隅)には阿弥陀如来坐像(像高約80センチ、平安時代後期、カツラの割矧ぎ造)、右奥には大日如来坐像(像高約110センチ、構造は阿弥陀如来坐像と共通し、本来一具であったか)が安置されている。

 

 

普段の拝観状況について

特別公開等でないときも、本堂は外陣まで入堂できる。外陣安置の阿弥陀如来像、大日如来像、地蔵菩薩像、薬師三尊懸仏は拝観可能。また、内陣はライトをつけてくださっているので、距離は遠いが格子越しに十二神将像の姿を見ることができる。拝観料は500円。

 

 

さらに知りたい時は…

『新装版 古佛』、井上正、法蔵館、2013年

『仏像』(展覧会図録)、東京国立博物館ほか、2006年

『神と仏』、藤森武、東京美術、1998年

「霊山寺の仏像」(『霊山寺と菩提僧正記念論集』、霊山寺、1988年)、松浦正昭

『古寺巡礼奈良12 霊山寺』、淡交社、1979年

 

 

仏像探訪記/奈良市