薬師寺東院堂の四天王像
大仏殿様四天王像の代表作
住所
奈良市西ノ京町457
訪問日
2010年1月16日、 2012年10月21日
この仏像の姿は(外部リンク)
拝観までの道
奈良・西の京の薬師寺は、近鉄橿原線西ノ京駅下車、東口から徒歩2分。
駅の東側に、北から玄奘三蔵院伽藍、本坊、白鳳伽藍の順でたくさんの堂塔が建ちならぶ。
駅の南側の道を東へ進むと、まもなく白鳳伽藍の北の入口である與楽門がある。
白鳳伽藍では、東塔のみが古代の建築(ただし2009年から修理が行われている)で、西塔、金堂、大講堂、回廊、僧坊は戦後の再建。境内の東南、東回廊の外側に建つ東院堂は、鎌倉時代の建築。
拝観料
800円(ただし、春秋の時期など、玄奘三蔵院公開時には1,100円)
お堂や仏像のいわれなど
薬師寺の東院は、平城遷都をなした元明天皇のために奈良時代の前期につくられたという。その後の変遷はよくわからない。現在の薬師寺東院堂は鎌倉時代後期の建物で、元は南面して建てられていたが、江戸時代中期に現在のように西向きに変えられたのだという。
比較的高い基壇上に建ち、正面は7間(柱と柱の間の数が7)と、横に長い建物である。内部は板を張り、天井は比較的低く、落ち着いた空間である。
壇上中央に金銅の聖観音立像が厨子に入って安置されている。白鳳期から奈良時代前期にかけてつくられた、極めて美しい菩薩像である。
その周囲に四天王像が安置されている。
多聞天像の台座より墨書銘が見つかっている。それによると、鎌倉時代後期の1289年に京都五条坊門の仏師法眼隆賢と駿河法橋定秀によってつくられ、1296年に興福寺住の絵師によって彩色されたことがわかる。
拝観の環境
堂内で拝観でき、四天王像は側面の姿もわかる。
西面しているので、晴天の午後であればいっそうよい。
仏像の印象
四天王像は像高各190センチ内外と、なかなか大型で、迫力がある。
須弥壇の東南に立つ持国天像は、右手を高くあげて武器をとり、左手は腰に、右足を曲げて邪鬼の頭を踏む。西南の増長天は、持国天とは逆に左手を上げ、右手は腰、左足を曲げて邪鬼の頭を踏まえる。左手は戟を持つ。
持国天、増長天はともに頭を若干外側に向け、口を開く。
一方、後方の広目天像、多聞天像は口を閉じ、手足の動きも少ない。視線はやや内側に向けている。
なお、4躰とも兜は着けない。
顔は、眉やほおを盛り上げ、眼光鋭く、鼻は大きく、顎をがっしりとつくる。
鎧の袖や裾から出ている衣は風に大きく翻って、にぎやかである。全体に体勢は自然で、バランスよく、迫力があるが、誇張が勝っているといえる。
下半身がやや短いこともあり、鎧にかかる天衣と膝のあたりで複雑に翻る衣のつくりはやや重たい印象がある。
その他(大仏殿様四天王像について)
この薬師寺東院堂の四天王像のような姿の四天王像は、鎌倉時代以後いくつもつくられている。この姿は、重源によって再興され、今は失われた東大寺大仏殿の四天王像(康慶、運慶、快慶、定覚が1躰ずつ担当)をおおもとにしていると考えられ、「大仏殿様四天王像」と呼ばれている。
大仏殿様四天王像の基準作例には次の像がある。
まず鎌倉時代前期では、金剛峰寺の四天王像(広目天像に快慶の銘がある)、海住山寺の四天王像(もと五重塔安置か、奈良国立博物館寄託)がある。
鎌倉後期を代表する像としては本像のほか、新薬師寺の四天王像(大阪市立美術館寄託)や岩船寺本堂の四天王像が、南北朝時代の像としては法隆寺上堂の像や奈良・霊山寺三重塔の像が知られる。
さらに知りたい時は…
『日本彫刻史基礎資料集成 鎌倉時代 造像銘記篇』14、中央公論美術出版、2018年
『薬師寺』(『古寺巡礼 奈良』9)、淡交社、2010年
『奈良六大寺大観6 薬師寺』(補訂版)、岩波書店、2000年
『仏像と人の歴史発見』、清水眞澄、里文出版、1999年