興福寺国宝館の千手観音像
近代初期に取り壊された食堂の旧本尊
住所
奈良市登大路町48
訪問日
2010年4月16日、 2018年12月16日
この仏像の姿は(外部リンク)
拝観までの道
近鉄奈良駅から徒歩約10分、JR奈良駅から徒歩約20分。
国宝館は年中無休。
拝観料
700円(東金堂との共通券900円)
お堂や仏像のいわれ
芭蕉の句に「奈良七重七堂伽藍八重桜」とある。
大寺院に備わった7つの重要な堂塔を総称して七堂伽藍とよぶ。時代や宗派によって異なるが、おおむね金堂、塔、講堂、鐘楼、経蔵、僧坊、食堂の7つをいうことが多い。
このうちの食堂(じきどう)は、文字通り僧が食事をとるための建物である。
興福寺の食堂は、正確な創建年代こそ不明ながら、744年までには建てられていたことがわかっている。その後11世紀半ばに焼失したが直ちに再建、また11世紀末には倒壊したそうだが、このときにも再建された。
1180年の平氏による南都焼き打ちで興福寺は全焼。その復興の際には、食堂は講堂、南円堂とともに最初に着工され、1189年に完成した。
その後も興福寺は、14世紀前半や18世紀前半の大火など繰り返し火災にみまわれたが、鎌倉再興の主要堂宇のうち食堂と北円堂の2堂は焼失を免れた。金堂や講堂に近接する食堂が類焼せず700年近く存続したことはまさに奇跡的だが、あろうことか近代初期の廃仏で奈良県によって取り壊されてしまった。この時には五重塔(室町時代再建)も壊されそうになったりしているので、食堂だけですんだのは不幸中の幸いとも言えるかもしれないが…
食堂跡に国宝館(興福寺の宝物館)が建てられたには1959年のことである。お寺に伝わる宝物を保護し、展示する場として、当時としては先進的な施設だった。耐火建築だが外観はいにしえの食堂をイメージし、地下には食堂の遺構が保存されている。
食堂の当初の本尊は不明だが、平安時代の記録では本尊は千手観音像とある。1180年に本尊はお堂とともに焼失、お堂の再建とともに本尊再興にも着手されたが、どういういきさつか、本尊はお堂より40年も遅れてようやく完成をみた。この鎌倉期再興の本尊は、近代に食堂が取り壊されると南円堂などに仮住まいとなっていたが、国宝館の完成によってその一番奥の空間(かつての食堂本尊の位置)に移されて、ようやく安住の地を得た。
拝観の環境
照明が美しく当てられて、近くからも、またやや離れて全体像もよく見ることができる。
仏像の印象
像高5メートル20センチの立像。近くからははるかに見上げるほどに大きな像である。
全身から力強さが感じられる。玉眼によって眼光するどく表現され、口は強く結び、頬からあごにかけ引き締まっている。
上半身も力がみなぎり、脇手は太く、平安時代後期の優美な千手観音像とはまったく異なって、見ていてたじろぐほどである。下半身は粘りのあるような彫りで、両足間には平安前期彫刻によく見られる渦巻きの文が刻まれているのは、この像が火災後の再興像であることを考えるならば、それ以前の像の姿を意識したものなのかもしれない。
成朝がつくるはずだった像
1180年の平氏による焼き打ち後、興福寺の復興事業は東大寺よりも早くスタートした。
当時仏師の主流は、定朝の流れを汲む3つの派、すなわち院派、円派、奈良仏師に分かれていた。このうち、奈良を根拠地とする奈良仏師は、中央での活躍する機会は他の派に比べて少なかった。
南都の復興という国家的大事業が始まると、3派は総力を挙げて仏像制作に取り組んだが、誰がどの仏像を担当するかで相当な駆け引きがあったらしい。
当時奈良仏師の中心は、嫡流の若い成朝(せいちょう、じょうちょう)と傍流だが老練な康慶のふたりであった。
成朝が任されたのが、この食堂本尊像である(康慶は南円堂本尊を担当)。
さらに成朝は頼朝の招きで鎌倉へ下向、勝長寿院の本尊(現存せず)制作にたずさわり、新興の幕府勢力による造仏という新たな活躍の場を切り開く。ところが、成朝が奈良を離れている間に院派や円派がさまざまに動いたようで、本来奈良仏師が担当すべき仕事が院派、円派に奪わていると成朝は頼朝に訴えている。
しかし成朝の活躍の場を奪ったのは院派、円派だけではない。傍流の康慶とその子運慶もまた、結果としてかもしれないが、嫡流である成朝の立ち位置を奪ってゆく。
最近、鎌倉期再興の西金堂本尊(頭部のみ残存、国宝館に展示)が運慶作であると確認された。嫡流であるはずの成朝はいつの間にか康慶とその子運慶らの後塵を拝する立場に追い込まれていったのである。
成朝は悲運の仏師である。彼が担当した食堂本尊の完成を伝える記事は史料に見えない。どのような事情か完成には至らなかったようである。それどころか1194年に「法橋」という位に叙されたという記録を最後に、その消息は歴史から消える。おそらく若くして世を去ったものと思われる。
かくして、運慶ら「慶派」の仏師の仏像が多く伝来するのに対して、成朝作であることが確実な仏像は1躰も伝わらない(山梨・放光寺の仁王像は成朝の作である可能性があるとされる)。
食堂本尊の完成
千手観音像の像内には銘文と、おびただしい納入品が納められ、多くの人々の結縁によって造立された像であることがわかる。
それらの中に年を書いたものがあり、1218年から1229年にわたる。本像はこの間に制作されたものと考えられている。
1229年といえば、成朝に関する最後の記録から35年後、運慶の死からも6年がたっている。運慶の次の世代の活躍期である。残念ながら、記録、銘文、納入品によっても本像の作者はわからない。少なくとも、その年代から、また、多くの人々の合力で造られたという成立事情は成朝活躍期の造仏の様子とは異なっていることからも、この仏像が成朝の作ではないということは確かである。
この像は寄木造であるが、特異な構造をしているという。
体は前面2材、背面1材を寄せているが、その前面2材は汚れや削り直しが見られる。また、2材の間に他からの転用と思われる細い材を2つはさんでいる。
この前面の古い2材は、成朝がつくりはじめ、何らかの事情で放置された千手観音像のものである可能性があると思われる。本像の作者は不明であるが、成朝が完成させるはずであった古材をわざわざ用いたとすれば、その仏師は成朝ゆかりの者であったのではないかなどと想像を巡らせたくなる。
さらに知りたい時は…
『目の見えない白鳥さんとアートを見にいく』、川内有緒、集英社インターナショナル、2021年
『興福寺 美術史研究のあゆみ』、大橋一章・片岡直樹編、里文出版、2011年
『週刊朝日百科 国宝の美』29、朝日新聞出版、2010年3月
『もっと知りたい 興福寺の仏たち』、金子啓明、東京美術、2009年
「シンポジウム 仏師運慶をめぐる再発見と課題」(『金沢文庫研究』320)、2008年3月
「『類聚世要抄』に見える鎌倉期興福寺再建」(『仏教芸術』291)、横内裕人、2007年3月
『日本彫刻史基礎資料集成 鎌倉時代 造像銘記篇4』、中央公論美術出版、2006年
『奈良六大寺大觀 8 興福寺』(補訂版)、岩波書店、2000年
『運慶 その人と芸術』、副島弘道、吉川弘文館、2000年
「興福寺と奈良仏師」(『週刊朝日百科 日本の国宝』056)、鈴木喜博、朝日新聞社、1998年3月