興善寺と法徳寺の阿弥陀如来像
美しい阿弥陀さまを本尊とする2か寺
住所
奈良市十輪院畑町10(興善寺)
奈良市十輪院町23 (法徳寺)
訪問日
2020年2月9日
この仏像の姿は(外部リンク)
浄土宗法輪山興善寺(Facebook)
興善寺について
興善寺と法徳寺は、石仏龕で有名な十輪院のすぐ近くにある。
最寄り駅は近鉄奈良駅(徒歩20分)またはJR桜井線の京終駅(徒歩15分)。最寄りのバス停は「福地院町」か「田中町」である(JR奈良駅または近鉄奈良駅より奈良交通バス)。
興善寺は十輪院の東側にある。境内は南北に長く、本堂の位置は十輪院本堂のちょうど裏手(北側)となる。門は南北両方にあり、十輪院の並びにあるのは南側の門だが、北側の門(今西家書院の方)からも入れる。
かつては元興寺の子院であったというが、16世紀後半に慶誉という方によって再興され、以後浄土宗寺院として今日に至っている。
興善寺の拝観
拝観には事前連絡必要。志納。
筆者がうかがった日は「お涅槃」の特別拝観(2月1日~15日)が行われており、この時期には予約なしで拝観できるということだった。
本堂内外陣からの拝観。東向きに建っているので、晴天の午前中が特によい。
本尊・阿弥陀如来像の印象
阿弥陀如来像は鎌倉時代前期の作。像高約1メートルの立像。寄木造、玉眼。
来迎印を結び、踏割蓮華座に立つ。
目、鼻、口は中央に集まる。ややなで肩。手は小さくつくる。
優しく穏やかな表情で、自然な立ち姿の像である。気負っていたり、奇をてらうようなところがまったくない。全体的にすっきりとした美しいお姿のすばらしい像である。
衣のひだはしっかりと刻まれている。
阿弥陀如来像の像内納入品について
1960年代に調査が行われ、像内から造立に際しての結縁交名の文書と蔵骨器(木製)が発見された。
結縁交名には1500名以上の人の名前が書かれ、本像が多くの人の協力を得てつくられたことがわかる。ただし、願文のようなものはなく、造立年や仏師名などはわからない。
だが、結縁交名の文書は書状の裏を用いて書かれており、そこからさまざまなことがわかる。
これらの書状はすべて正行房というお坊さんにあてられたもので、このことから本像は正行房によって造像されたものと推測できる。また、文書とともに納入されていた蔵骨器は、正行房の肉親の方のものと考えられる。
この正行房というお坊さんは法然の絵伝にちょっとだけ登場し、法然と同時代の僧として名前は知られていた。しかし、ここで見つかった書状は法然自身やその弟子の証空などから正行房に宛てた手紙であり、その文面から法然と正行房は親しい間柄で、互いに尊敬の念を持って接していることがうかがえる。これにより、正行房は法然の高弟または志を同じくする念仏僧であったことがわかった。本像を造立するにあたって1500名もの人が結縁をしているということから、奈良地域で活躍する念仏集団のリーダーとして、法然にとって大変力強い同朋であったのではないかと思われる。
また、これ以前には法然真筆の手紙は知られていなかったので、まさに大発見であった。
これらの書状には年が書かれていないが、法然の書状は四国流罪直前の1204年~1206年ごろに書かれたものであると考えられている。
発見された納入品は京都国立博物館に寄託しているとのことだが、堂内にはそのレプリカが展示されている。
阿弥陀如来像の銘文について
本像にはまた、足ほぞに銘記がある。
片方の足のほぞの銘は造立当初の銘と考えられるものの、2行計6文字が書かれているようだが、残念ながら鮮明でなく、読み取ることは不可能である。
もう片方の足のほぞの銘文は造立当初の銘ではなく、16世紀に本像がこのお寺に移座された時のものである。それには「東山内田原」の文字が書かれており、これは現在の奈良市東部(旧都祁村)にあった地名と考えられている。ここが本像の原所在地と考えられるが、残念ながら何という名前のお寺に伝わったのかなどの詳細はわからない。
法徳寺について
十輪院の門に向かって左側、興善寺と逆の側に法徳寺というお寺がある。
もとは興善寺と同じく元興寺の子院であったというが、17世紀はじめに倍巌上人という方によって中興され、融通念仏宗に改められたという。
拝観には事前連絡が必要である。志納。
本尊は阿弥陀如来像。
また、このお寺には近年多くの仏像が寄進され、本堂の脇の間に安置される。ただし、昨年(2019年)、奈良国立博物館でそれらの仏像の特集展示(特別陳列「法徳寺の仏像ー近代を旅した仏たち」)が行われ、展覧会終了後も奈良国立博物館に預けられている。
仏像が博物館からお寺に戻ってくる日については未定とのことだった。
法徳寺の阿弥陀如来像
本尊は平安時代末期ごろの阿弥陀如来立像。来迎印を結ぶ。光背に両脇寺菩薩が取り付けられているのが面白い。
螺髪の粒は小さく、よく整う。髪際は中央でほんのわずか下がっているように見えたが、いかがであろうか。顔はやや幅広。落ち着いた穏やかな風貌の像である。
胸と腹で衣文が強調されるが、下半身はいたってシンプルで、定朝様の立像の仏像の典型であるように思う。
台座(近世に補われたもの)の裏面の墨書から、この像がもと法隆寺にあったことがわかる。
本堂内は明るく、よく拝観できる。
さらに知りたい時は…
『興善寺文書 発見五〇周年記念誌』、興善寺編、2012年
『浄土宗新聞』494、2008年4月号
『浄土宗新聞』493、2008年3月号
「奈良興善寺阿弥陀仏造立の仏教教育私考」(『日本仏教教育学研究』4)、谷川守正、1996年
『奈良市の仏像 奈良市彫刻調査報告書』、奈良市教育委員会、1987年
『奈良市史 書跡編』、奈良市史編集審議会、1973年
「奈良興善寺本尊陀弥立像と胎内発見の造像及法然文書」(『史迹と美術』) 、太田古朴、1962年5月
→ 仏像探訪記/奈良市