白毫寺の菩薩坐像
平安時代前期の優作
住所
奈良市白毫寺町392
訪問日
2011年9月19日、 2018年6月9日
拝観までの道
奈良の町の観光マップを手にした時、その最も東南に見える寺院が白毫寺(びゃくごうじ)である。
最寄りバス停は「白毫寺」で、下車したらバスの進行方向へ少しゆくと、左に入る小道がある(入り口はやや分かりにくいのだが)。その道をまっすぐ東へ。徒歩10分弱で白毫寺の石段下に着く。
ただしこの「白毫寺」バス停を通るバス便は少ない(JR・近鉄奈良駅から120、122、124系統)。奈良市内循環など便数が多いバス停は「高畑(たかばたけ)町」で、下車後徒歩15〜20分くらい。
新薬師寺からは徒歩約15分。
その他の行き方としては、近鉄奈良駅やJR奈良駅近くにあるレンタサイクルを使うという手がある。
拝観料
500円
お寺やいわれなど
白毫寺は古代草創というが、その起こりは残念ながらよくわかっていない。
白毫寺の東には標高400メートルの高円山があるが、その南麓にかつて岩淵寺というお寺が栄えたという。その中の子院が白毫寺の前身であるという説もある。
鎌倉中期ごろに復興され、以後真言律宗の寺院として現在に至るも、その歩みは平坦でなく、応仁の乱、戦国の戦乱、江戸時代の失火と、繰り返し火災に襲われた。かつては荒れた雰囲気の寺であったというが、現在は境内も整えられて、萩など花の名所としても知られている。
拝観の環境
文化財指定を受けている仏像は、本堂裏の宝蔵(収蔵庫)に安置されている。
近くよりよく拝観できる。
仏像の印象
宝蔵の諸仏の中でもっとも古く、かつ魅力的な仏像は、平安時代前期の菩薩坐像である。寺では文殊菩薩と伝えるが、手先が後補され、当初の印相が不明であることもあって、実際の尊名はわからない。
かつて白毫寺には多宝塔があり、本像はその本尊であった。この多宝塔は20世紀前半に売却され、宝塚市にある富豪の山荘に移されたが、今世紀に入って山火事の類焼で失われたという。もっとも塔は中世〜近世の建物であったので、この仏像の方が時代が古く、本来どこに安置されるためにつくられたのかについては不詳である。
像高は約1メートルの坐像。一木造で、乾漆を併用している。
手はすらりとは伸びないが、脚部はしっかりとつくって、とても安定感がある像である。
大きく結ったまげは、力強く同時に端正である。
顔は四角く、額を大きくとる一方、顎は口や顎は小さめにつくる。遠くを見るがごときまさざしがたいへん魅力的である。面奥は深く、重量感がある。
ややいかり肩。上半身は大きくつくり、胴をしっかりと絞る。
天衣をはなやかにまとい、条帛は細めに着けてお洒落な印象がある。
威厳と美しさを併せ持つすばらしい像と思う。
その他の仏像について
宝蔵の正面中央には定朝様の阿弥陀如来像が安置される。像高約140センチと半丈六の坐像で、オーソドックスな姿。宝蔵に移されるまで、本堂の中央に安置されていた像である。
地蔵菩薩像は鎌倉時代の作。かつては彩色、切金がさぞや美しかったであろうと思われる。像高約160センチの立像。
宝蔵の左右に分かれて、冥界の王、役人の像4躰が置かれる。閻魔王、太山王、司命・司録像である。
これらはもと閻魔堂というお堂にあったが、室町時代に炎上し、救い出された。しかしその際に損傷を被り、太山王の体の前面や脚部、司録像の頭部は後補となってしまている。
太山王像の当初部分である背面内側に銘文があり、1259年に大仏師法眼康円と法橋相模によって造立されたとある。康円は運慶の次の次の世代で、慶派を率いた仏師である。
太山王像の横に興正菩薩像が安置されている。興正菩薩とは西大寺流律宗・叡尊の諡(おくりな)である。この像が伝えられていることは、この寺が鎌倉期に叡尊を中心とする西大寺流の律宗によって再興された歴史による。
叡尊が復興し、長く住した奈良の西大寺には、仏師善春作の寿像(生存中につくられた肖像彫刻)が伝わるが、この白毫寺の像はその模刻像らしい。鎌倉末期ごろの生き生きとした肖像彫刻である。ただし、西大寺の像は像高90センチあまりで、背筋、首筋がしゃんと伸びた気迫ある造形であるのに対して、白毫寺の像は70センチあまりとひと回り小さく、顔をやや斜め下に向け、物を思うような表情である。
さらに知りたい時は…
『生身と霊験 宗教的意味を踏まえた仏像の基礎的調査研究』(『東国乃仏像』三)、有賀祥隆ほか、2014年
『日本彫刻史基礎資料集成 鎌倉時代 造像銘記篇』9、中央公論美術出版、2013年
『新薬師寺と白毫寺・円成寺』(『日本の古寺美術16』)、清水眞澄・稲木吉一、保育社、1990
『西大寺展』(展覧会図録)、奈良国立博物館、1990年
『大和古寺大観』4、岩波書店、1977年