法華寺、海龍王寺、不退寺の仏像
佐保・佐紀路の3か寺を行く
住所
奈良市法華寺町 882(法華寺)
奈良市法華寺北町897(海龍王寺)
奈良市法蓮東垣内町517(不退寺)
訪問日
2013年10月26日
この仏像の姿は(外部リンク)
法華寺、海龍王寺、不退寺への道
東大寺の西の門である転害門から西へ、近鉄の大和西大寺駅に至る地域を「佐保、佐紀路」と呼んでいる。ここは平城京の一番北側の街路が通っていたところ(およびその北側の丘陵地帯)で、平城宮の門や建物が復元されるなど、近年大きく変貌をとげているが、不退寺や海龍王寺の風情ある境内は昔と変わらない。
この地域の東半分が「佐保」、西半分が「佐紀」である。
古来より歌に詠まれた佐保川(大和川支流)が西流するその北側が佐保、この佐保川が南へと去ったその西側が佐紀と考えるとよいが、漠然とした地域の概念であるので、正確にどこからどこまでと決まっているわけでない。
この佐保と佐紀の接点のような場所にあるのが、法華寺、海龍王寺、不退寺の3寺院である。
3つのお寺は近い位置にあり、近鉄の新大宮駅から徒歩圏である。大和西大寺駅と近鉄奈良駅間の奈良交通バスを使うこともできる(日中1時間に2便)。
今回私は大和西大寺駅近くのレンタサイクルを使ってこの3か寺を巡拝し、近鉄奈良駅近くの自転車センターで返却した(西大寺で借りて近鉄奈良で乗り捨てができるが、逆はできない)。
大和西大寺駅より平城宮の北側を東へと行くか、平城宮内を進んで行くか、いずれにしても法華寺までは自転車で15分とかからない。
法華寺と海龍王寺は同じブロック内にある。法華寺の東側に海龍王寺があるのだが、法華寺の入口は南側にあり、海龍王寺は東側に表門があるので、法華寺を出て塀沿いに反時計回りに進む。
海龍王寺から不退寺へは、南側の交差点へ戻り東へ、国道24号を陸橋で渡ると、不退寺を示す案内看板がでているので、そこを北へ。徒歩でも15分くらい、自転車なら数分で着く。そこから近鉄奈良駅までは東南に2キロくらい、自転車で15分以内で到着した。
なお、法華寺と海龍王寺の本尊は秘仏のため、公開時期が限定されている。
法華寺について
法華寺は奈良時代に大和の国分尼寺としてつくられ、正式には法華滅罪之寺と称した。金堂、講堂、中門、東西両塔などを備え、平安初期まで造営が続いていたようだ。
平安時代中期には早くも荒廃が進むが、鎌倉時代初期に重源が、中期には叡尊が復興につとめた。しかし、戦国の兵乱や地震のために残念ながら古建築は伝わらず、今の本堂は豊臣秀頼が江戸初期に建てさせたものである。
奈良時代の金堂は今の本堂よりも南側にあり、今の南門のあたりに講堂が建っていたのではないかと推定されている。その北側にはいくつかのお堂が建てられていて、そのひとつの建物跡に今の本堂はつくられている。近世建築ながら、古代の仏堂の雰囲気をよく伝える建物である。
拝観料は700円だが、本尊開帳時や特別公開時は別料金。
法華寺本尊・十一面観音像について
本尊の十一面観音像は秘仏で、年3度開帳。春季は3月20日~4月7日まで、夏季は6月初旬の数日間、秋季は10月下旬から11月上旬の約半月間(2013年の場合、10月25日から11月10日までだった)となる。
十一面観音像は日本の一木彫の仏像を代表する名像。豊かな側面感と風動表現でしられるが、厨子中にあるので、正面からのみの拝観。
拝観位置からはそれほど距離がなく、照明もあり、比較的よく拝観できる。厨子の前は数人でいっぱいになるが、後列で少し待っていると、ほどなく前に出て見ることができる。
意外に細身であると感じ、意外だった。横または斜めからの写真を見る機会があまりにも多く、その影響で一木造の像らしいボリューム感ある像だと勝手に思い込んでいたためであったのだろうか。さらに、思っていたよりも軽やかな感じがした。体重のかけ方がやや不安定だが、これは一瞬の動きを彫像にしたためなのかもしれない。
奈良時代末期から平安時代前期の作。
もと観音堂本尊と伝えるが、その造立の由来等、不明である。
法華寺のその他の仏像1(奈良~平安時代の像)
法華寺本堂には、本尊・十一面観音像以外にも多くの仏像が安置される。
本尊厨子のまわりには四天王像、本尊に向かって左奥に仏頭と天部像頭部(二天頭)、また左右の格子戸の中には維摩居士像、十一面観音像、文殊菩薩像が置かれている。
創建当初ないしそれに近い時代につくられた可能性のある仏像が、維摩居士像と二天頭である。
維摩居士像は、本堂の拝観受付の方がいるその後ろの格子戸内に安置されている。うっかりすると見逃してしまうので、注意。
『維摩経』にある文殊菩薩と問答を繰り広げた姿をあらわしたと思われ、老相、頭巾をつけ、足を崩してすわる。体はそり気味にて、病の床にある老人の風を見せつつも、両手を前に出して、豊かな空間生み出しながら説法をしている生き生きした造形が魅力的である。頭をわずかに傾け、頭巾、両目の配置など、顔のそれぞれのパーツをほんのわずかずつゆがませ、眉もつりあげ、それによって自然な風貌をつくりだすことに成功している。像高は約90センチ。
二天頭は本堂の西北の隅に仏頭を中央にして左右に安置され、梵天、帝釈天像の頭部であると伝える。頭頂から顎まで60センチあり、立像で2メートル半程度はゆうにあったと思われ、かつての法華寺の丈六本尊の眷属像であった可能性も高い。奈良時代の彫刻の流れを汲んだ、調和のとれた造形が魅力的である。一木造。
本尊厨子を取り巻いて立つ四天王像は、平安後期時代の作。像高は各1メートルあまりで、体勢はややぎこちない。後列の広目天、多聞天像は面白い形の兜をつけている。
法華寺のその他の仏像2(鎌倉~室町時代の像)
お堂の拝観入口と反対側(東側)の格子戸の中に安置されている十一面観音像は、錫杖を持つ長谷式の像。もと法華寺の鎮守社の本地仏という。室町時代の作。
十一面観音像と並んで置かれている文殊菩薩像は獅子に乗る姿の像で、鎌倉時代の作。鎌倉中期、西大寺の叡尊が法華寺復興につとめたのだが、叡尊は文殊信仰が深く、その関連の像であろうか。光背に8つの真言がつけられており、八字文殊法という修法の本尊であることを示している。
二天頭の間に安置される仏頭は、内部に銘文があり、鎌倉時代初期に南都の復興に力を注いだ重源がかかわった像とわかる。重源の『南無阿弥陀仏作善集』にもこの像の修造ことは書かれている。頭頂から顎まで約80センチの大きなもので、かつて法華寺の本尊、もしくは法華寺の南西に接続してつくられた阿弥陀浄土院の本尊の頭部である可能性がある。
近い位置でこれほど大きな仏像の頭部を拝観できると、圧倒される思いがする。
構造は、ヒノキ、前後2材からなる寄木造。
重源は新造と修復を明らかに区別した書き方をしているので、古仏を修繕したものであることは確かだが、寄木造であり、もとより創建当初の仏像というわけではない。また、引き締まった表情、明快な印象は鎌倉前期の仏像と紹介されたとしても違和感なく感じられ、修復とすれば相当手を入れたものと考えるべきなのだろうか。ただし、目や下唇の形状は単純な線で、重源が関係した鎌倉初期の仏像の傑作と比較すると、やや物足りない印象もある。この仏頭については、どのように考えるべきか、まだ説が定まらない。
螺髪が全部取れてしまっているが、つけばまた印象は大きく変わるかもしれない。
海龍王寺について
表門や築地塀がとても趣のあるお寺である。
今は東側から入るが、本来は南大門があり、南が正門であったらしい。
古代以来の古いお寺であるが、創建の事情等は明らかでない。奈良時代には隅寺または隅院と呼ばれたが、平安時代以後海龍王寺と称する。境内にて発掘された瓦の中には奈良時代より前のものがあるので、平城京造営以前に開かれた寺院と考えられている。
平城京がつくられるとこの場所には藤原不比等邸が営まれ、以前からあった寺院はその一隅にとりこまれたのではないかと推測されている。
不比等邸は娘の光明子が相続し、皇后宮から法華寺となったのだが、かつてとりこまれたこのお寺はそのいずれかの過程で別寺院として成立したのだろう。
「隅」の名前の通りそれほど大きな寺地でないが、そこに3つの金堂が建っていたそうだ。そのうちの西金堂は今日まで伝わり、奈良時代の五重の小塔をまつっている。庇のない簡素な建物で、柱間は奈良時代の尺の単位でつくられている。ただし、後世の手もかなり入る。
本堂は江戸時代の建物で、かつての中金堂のあとに建てられている。
鎌倉時代に貞慶、ついで叡尊によって復興され、現在の宗派は真言律宗である。
海龍王寺の仏像
本尊は鎌倉時代の十一面観音立像。秘仏で春と秋に開扉。春は3月下旬から4月上旬の約2週間、秋は10月下旬から11月上旬の約20日間(お寺のホームページで確認のこと)。なお、8月12日~17日と12月24日~31日は拝観お休み。
拝観料は通常500円だが、秘仏公開時は600円。
十一面観音像は像高約90センチ、ヒノキの寄木造、玉眼。鎌倉時代後期頃の作と思われる。
とにかく美しい像である。頭体のバランスに優れ、胴のくびれや腰のひねり、手の動きなど自然で破綻がない。彩色、截金がよく残り、贅をつくした装身具も美しい。全体に装飾過多とも言えなくはないが、下半身の衣、紐、装身具が幾重にも重なり合うさまは、ため息がでる美しさである。
少しうつむき加減にしているため、正面で体を下げると視線があうようになっている。
顔はやや面長で、まぶたの表現や顎のラインも自然である。
すぐ前から拝観させていただける。
このほか本堂には鎌倉時代の伝文殊菩薩像などの仏像が安置され、拝観できる。
不退寺について
正式には不退転法輪寺というのだそうだ。
創建は在原業平であると伝える。史料上の初見としては、『日本三代実録』の860年の項にこの寺が登場する。また、かつては「十五大寺」のひとつにも数えられていたようで、かなりの寺格をもつ寺であったと考えられる。
もともとこの地は平城天皇ゆかりの場所であったようである。在原業平はその孫であり、業平草創という伝えが本当かどうかはわからないが、平城天皇の子・孫がその冥福を祈って創建した寺であるという可能性は高いと思われる。
中世以後の寺史もよくは知られないが、興福寺一乗院の末寺でありつつ、同時に西大寺流律宗との関係が深かったらしい。現在は真言律宗寺院である。
建物は、本堂は南北朝時代ごろのもの、多宝塔(ただし初重のみ残る)は鎌倉時代後期、南門はこの形式の門としては大型のもので、墨書によって鎌倉時代末期の1317年のものとわかる。
拝観料は通常500円だが、3月〜5月、10・11月は在原業平画像が公開される特別な期間のため、600円。
不退寺の聖観音像
本堂の壇上中央の厨子中に安置される聖観音像が、不退寺の本尊である。像高は約190センチの立像。サクラあるいはカツラの一木造。寺伝では在原業平自刻という。
頭の両脇のかんざしに大きなリボンをつけて、そこからの紐が盛大に垂れているのがとても目だつが、これは後補。また、右腕や足首より下、裙につけられた花の模様も後補である。
表面は胡粉の下地の白色がまだらになっており、そのために像の様子が分かりにくくなっているのだが、よく見ているとなかなか味わいのある姿であることがわかる。
正面の冠ごしに見ると、まげは豊かに結い上げられている。耳は、厨子中に安置されているので耳は見えないが、写真で見ると毛筋が3条も耳を横切っている。
上のまぶたがしっかりとふくらみ、やほおの張り、口もとからあごがひきしまっている様子など魅力的である。
体は、胸部を大きく豊かにつくる。腰をわずかにひねり、その分右足が遊び、下肢の前で天衣が向かって左へと揺れる。2本になって横切る天衣の下の1本は足首近くまで下がっている。
両足間には渦巻きの文があり、これは平安前期彫刻によく見られるものだが、全体的に衣のひだは浅く、平安中期頃の作と考えられる。
実はこの像とセットと考えられている像がある。もと奈良市内の寺院にあり、美術館の所有を経て文化庁所蔵となった観音菩薩立像で、奈良国立博物館に寄託されている像である(奈良国立博物館のなら仏像館で展示されていることが多い)。
近年の調査の結果、かつて不退寺にあったと判明、また不退寺本尊とは像高や材質が一致し、彫りの特徴も同様である。腰のひねりなどは逆になっているため、本来は中尊があり、両像はその脇侍であったと考えられる。
これほどの大きさの像の中尊像であれば、中尊は丈六の如来坐像であったのではないかと想像され、かつては不退寺が確かに規模の大きなお寺であったのだとわかる。
不退寺のその他の仏像
本尊の左右に五大明王像が安置されている。江戸時代には金堂の本尊であったらしい。ヒノキの寄木造。
坐像の不動明王像が像高約90センチ、他の明王は140~160センチの大きさである。やや腰高、棒立ちの印象で、動きが少なく、迫力より親しみやすさのようなものを感じる像で、平安時代の後、末期の穏やかさを優先させた仏像の風がでているものと思われる。
中尊の不動明王像は玉眼が入り、どっしりと安定感のある像容を見せる。髪を総髪にし、両目とも見開いた、いわゆる大師様の不動明王像で、怒りをうちに秘めた顔つきは魅力的である。他の4像は平安時代の作だが、本像は鎌倉時代に補われたものである可能性がある。
本堂内の西側の間には阿保(あぼ)親王像と伝える肖像が安置されている。阿保親王は平城天皇の第1皇子で、在原業平の父。冠をつけ、笏をかまえ、威儀を正して座る姿で、像高約1メートル、ヒノキの寄木造、玉眼。室町時代ごろの像と考えられている。
さらに知りたい時は…
『法華寺と佐保佐紀の寺』(『日本の古寺美術』17)、保育社、1987年
『大和古寺大観』5、岩波書店、1978年