東大寺俊乗堂の俊乗上人像

  年2回、7月5日と12月16日に開扉

住所

奈良市雑司町406−1

 

 

訪問日

2007年12月16日、 2018年12月16日

 

 

この仏像の姿(外部リンク)

東大寺指図堂由来

 

 

 

拝観までの道

東大寺俊乗堂は、大仏殿と二月堂や三月堂のある丘の間、大仏殿の東側からねこ段と呼ばれる石段を上がったところにある。

近鉄奈良駅からは徒歩で25分くらい。

 

年に2回、7月5日と12月16日に開扉される。7月5日が本来の縁日で、法要のあと11時ころから16時ころまで開く。12月16日は他の堂(三月堂・開山堂)でご開帳があるのに合わせて、このお堂でも開帳が行われる。

 

華厳宗大本山東大寺・参拝のご案内・俊乗堂

 

 

拝観料

一般600円

 

 

お堂のいわれなど

奈良時代の東大寺は、平安末期、平氏の軍勢によって焼かれ、法華堂(三月堂)などを除き灰燼に帰した。大仏殿も焼け落ちてしまった。

ただちに復興の動きがはじまり、藤原行隆が造寺官・造仏官の長官となった。彼は勅使として鋳師(いもじ、銅の鋳造技術をもつ人々)十余人を連れ、実地検分を行ったが、鋳師は大仏の残骸を見て「復興はとても人力の及ぶところではない」と尻込みしたという。

この時、勅使下向の噂を聞き、藤原行隆のもとをひとりの僧侶が訪れた。俊乗房重源(しゅんじょうぼう ちょうげん)である。彼はそれまでに3度中国に渡航したといい、並外れた行動力をもった僧で、すでに61歳になっていたが、この困難な大事業に志願したのである。かくして彼は東大寺大勧進職すなわち東大寺再建の現場責任者となった。

 

勧進とは、寺院の建立・修築などのために寄付を募ることをいい、それは費用を集める手段であると同寺に人々に作善(さぜん)の機会を与えて信仰の道を指し示す行為でもあった。阿弥陀仏を深く信仰し、自ら「南無阿弥陀仏」と名乗った重源は、各地に浄土堂を建立して阿弥陀仏への信仰を勧めるとともに、東大寺復興のための資金や資材を得る基地としていった。長く困難な道のりの果てに、75歳の時に大仏殿落慶供養(1195年)、83歳の時に東大寺総供養(1203年)を行い、東大寺復興を成し遂げたのである(年齢は数え年)。それから3年後、重源は東大寺内に自ら建立した浄土堂で亡くなった。

 

このスーパーおじいさん、重源の肖像彫刻を安置しているのが俊乗堂である。ここはかつて重源の臨終の地である浄土堂があった場所という。

戦国時代の兵火(この時大仏殿は再び焼け落ちてしまう)で浄土堂は焼け、江戸前期の復興の際、ここに重源像をまつるために俊乗堂が建てられた。

 

 

拝観の環境

重源像(俊乗上人坐像)は、俊乗堂の中央、真新しい厨子の中に安置されている。堂内は明るく、またスポットライトで照らしてくださっているので、よく拝観できる。

正面からの距離はややあるが、厨子の側面も開いていて、横からも拝観できる。

 

 

像の印象など

像高は80センチ強で、ヒノキの寄木造、彫眼。

顔と手は肌色に、衣は灰色に着色された老人の像である。しかし、その面貌からは非常に強いインパクトを受ける。面長な上に頬が痩けているので、より長い顔に見え、目はくぼみ、額や目尻にはしわが刻まれる。首も肉が落ちて、筋が強く刻まれている。左右の目の大きさは異なり、への字に結んだ口も左右対象が崩れている。見ているうちに、重源像でなく、重源さんその人がそこに座っていらっしゃるように思えるほどの迫真の彫刻である。

 

顔は前に出てやや猫背であるが、横から見ると体躯はどっしりとしている。腕のあたりに刻まれた衣の襞(ひだ)は深く、力強い(ただし、脚部正面や腹部、右腕などに彫り込まれた襞は、やや自然さに欠けるところもあるように思え、気になる)。腕は前で念珠を持つが、生前もこのような姿で阿弥陀仏の名号を唱えていたのだろうか。ともかく、像の風貌から重源最晩年の姿であると思われる。

 

造立の事情は分かっていない。この像を細部に至るまで克明に写したと思われる別の重源像が播磨の浄土寺に伝来し、その像内墨書銘に智阿弥陀仏(重源の弟子であろうか)が勧進によって造像したことと、1234年に東大寺から浄土寺に運ばれたということが書かれている。播磨の重源像が1234年までに成立しているならば、そのもとになったと思われる本像は当然それより前の制作である。

問題は、この像が造られたのが1206年の重源死去の前なのか後なのかとにいうことである。重源は生前自分の像を造らせ、中国の寧波(ニンポー)の阿育王山に安置したという記録があるので、この像も生前に造らせていた可能性はある。一方、同時代史料とは言えないが、鎌倉末期(14世紀前半)の仏教史書である『元亨釈書』に「源(重源)没して遺像を寺に置く」という記事があり、この像のことではないかとする説もある。

 

 

作者をめぐって

この像の作者はわかっていない。

当時の有力仏師の中で重源に最も近い人物は快慶である。重源は「南無阿弥陀仏」と称したが、快慶はその信仰上の弟子として「安(アン)阿弥陀仏」という名前を名乗っており、播磨の浄土寺の阿弥陀三尊像など、重源による造像を担当している。奈良国立文化財研究所の所長をつとめた小林剛は、この像の作者として考えうるのは快慶以外になく、快慶によるもっとも優れた写実彫刻であると強く主張した。快慶および重源の研究に大いなる業績を残した小林の論は傾聴に値するが、残念ながらこれは今日では少数説であるようだ。

快慶の作品で老いが表現されたものに、東大寺の僧形八幡神像や京都・大報恩寺の十大弟子像がある。しかし、快慶が得意としたのは清新さの表現であり、老いの味を出そうとしても、それを押しのけて若々しさが現れてしまう。対してこの重源像は、まさに神々しいまでに老いそのものが表現されていて、快慶作という意見への同意は難しい(もっとも大報恩寺十大弟子像はかなり後の作品であり、比較対象にはなりにくいが)。

 

一方、これほどまでにみごとな肖像彫刻をつくりうる仏師として、この時代に写実を得意とした慶派の中で最も実力のある仏師、つまり運慶あるいはその周辺とする意見が強い(ただし、背中や左の腕の表現が運慶らしくないという意見もある)。

なお、像内は頭部内は素地だが、体内は黒漆塗りとなっているという。

像底はくり残していないそうだ。

 

 

さらに知りたい時は…

『日本中世肖像彫刻史研究』、根立研介、中央公論美術出版、2022年

『対比でみる日本の仏像』、鈴木喜博、パイインターナショナル、2019年

『運慶』(展覧会図録)、東京国立博物館ほか、2017年

『運慶への招待』、朝日新聞出版、2017年

『東大寺』(展覧会図録)、神奈川県立金沢文庫、2013年

『東大寺大仏』(展覧会図録)、東京国立博物館ほか、2010年

『週刊朝日百科 国宝の美』37、朝日新聞出版、2010年5月

『運慶にであう』、山本勉、小学館、2008年

『大勧進重源』(展覧会図録)、奈良国立博物館、2006年

『東大寺ー美術研究のあゆみ』、大橋一章・斎藤理恵子 編、里文出版、2003年

『奈良六大寺大観 補訂版 11(東大寺3)』、岩波書店、2000年

『重源上人』(展覧会図録)、四日市市立博物館など、1997年

『運慶・快慶』(『名宝日本の美術』13)、金子啓明、小学館、1991年

『日本の古寺美術』7、保育社、1986年

『巧匠安阿弥陀佛快慶』(奈良国立文化財研究所十周年記念学報)、小林剛、1962年

 

 

仏像探訪記/奈良市