東大寺ミュージアムの二天像
内山永久寺旧蔵の持国天、多聞天像
住所
奈良市水門町100
訪問日
2013年10月27日、 2020年11月14日
館までの道
長く寺内に展示施設を持ってこなかった東大寺だが、2011年10月、南大門の北側にミュージアムをオープンさせた。
近鉄奈良駅から東へ徒歩15分~20分。
入館料
一般800円(大仏殿との共通券もあり)
ミュージアムや仏像のいわれなど
東大寺ミュージアムは、東大寺の所蔵する美術作品や歴史・考古資料を展示する総合的な展示施設である。広いスペースを用い、ゆったりとした展示がなされている。
中央の大きなケースには常設で5躰の仏像が安置されている。真ん中にはもと三昧堂(四月堂)にまつられていた千手観音像、その両隣に脇侍のように立つ像が、もと法華堂(三月堂)安置の伝日光、月光菩薩像である。
そして、そのさらに左右に、平安時代後、末期作の持国天、多聞天像が安置されている。力強い千手観音像、美しい伝日光、月光菩薩像にまず目がいき、結果見落としてしまいがちなこの左右の二天像だが、なかなか面白く、また歴史的にも重要な像である。
拝観の環境
ガラス越しながら、理想的なライティングのもと、よく拝観できる。斜めの角度からもかろうじて見え、像の厚みもわかる。
仏像の由来など
本像はもと現在の天理市にあった大寺院、永久寺(内山永久寺)に伝来した像である。この寺が近代初期の廃仏の時期に廃寺となって後、東大寺の所蔵となった。奈良国立博物館に寄託されていた時期が長かったので、そこで見たという人も多いのではないかと思う。
内山永久寺に伝わっていた頃から2像はセットだったと考えられるが、作風の違いが顕著であるため、当初からの一具ではなかった可能性が高い。持国天像が若干高いが、ほぼ像高が揃うので、どちらかが古く、どちらかそれにあわせてつくらたとも考えられる。
内山永久寺は、その記録から康慶、運慶、康円などの慶派の仏師が造仏や仏像修理に携わるケースがいくつもみられ、この二天像も慶派(奈良仏師)が造立したものと考えるのが自然である。従って本像は運慶登場以前の奈良仏師の作風をさぐる上でたいへん貴重な作例といえるが、造像年代や作者の推定などについては結論が出ていない。なかなか位置づけが難しい像である。
仏像の印象・持国天像
まず、ケースの向かって左端に立つ持国天像だが、像高は約2メートル。ヒノキの寄木造、彫眼。構造の詳細についてはよくわからない部分もあるが、鎧の一部など別製でつくってはぎつけているのが特徴的である。
一見して印象的なのは大きな頭部。目を大きく見開き、口をへの字に閉じて、口ひげを左右に長く伸ばしている。あまり大きい動作はとらず、正中線をはさんで左右のバランスがよく、安定感がある。また、鎧や冠の洗練された意匠がなかなかおしゃれである。動きこそ少ないが、引き締まって気迫があり、平安後、末期の様式から鎌倉の新時代の仏像へとぐっと進んだ感がある。
なお、本像はかつては右腕を失っていたが、近年東大寺内でこの腕が発見され、今は左右ともに手が揃っている。右腕は胸の斜め前で何かを掲げており、左手は下におろして棒状のものをとる姿である。
仏像の印象・多聞天像
一方、多聞天像は像高190センチ弱、ヒノキの寄木造、彫眼。
どっしりと太づくりの像である。
まず目につくのは、兜の左右にひねり返した部分が大きく派手やかなことである。
顔は斜め上を向いて、右手の先を見上げている。ただし、右手先は残念ながら失われている。おそらく宝塔を高く掲げた姿であったのだろう。
顔つきはどことなくエキゾチックで、目は非常に大きく見開き、口はへの字に曲げながらも開口する。
首はほとんどないといってよく、大きなあごの下はすぐ鎧である。鎧の意匠はおおらかで爽快なほどだが、持国天像のそれに比べてあか抜けない印象は否めない。胴は少し絞るが、基本的に太く、バランスよく両足を肩幅より広めにとって立っている。裾の衣は風になびいている。斜めの角度から見ると、胸や腰の太さがさらによくわかる。
顔つきや全体の様子は、重厚でありながら諧謔味があり、魅力的な像である。
ただし持国天像とはかなり作風が異なり、一対の像の細部を少し変えてみたといったレベルでなく、作者や制作時期に隔たりがあると考えられる。鎌倉新様式に近づいている印象が強い持国天像が新しく、多聞天像の方が若干古くつくられたと考えるのが自然であろう(ただし、着甲の形式の共通点を重視し、本来一具と考えてよいという意見もある)。
納入品と銘文をめぐって
持国天像には木箱(スギ製だが、蓋はヒノキという)が納入されていたことが確認されている。その蓋には、1160年の年が書かれている。
箱の中には経典と木札が入れられていて、木札には表に天部像の姿、裏には永久寺の僧による願文とともに1178年の年が書かれている。この描かれた天部像は右手を曲げて珠のようなものを、左手を下ろして刀のようなものを持ち、この姿は『陀羅尼集経(だらにじっきょう)』というお経にある持国天の姿に一致するとともに、本体の持国天の姿とも共通する。
このことから、持国天像は『陀羅尼集経』を典拠とした像であることがわかる。この姿の像は興福寺東金堂の持国天像(平安時代前期)や興福寺南円堂の四天王像(鎌倉時代初期、康慶一門による造像)など奈良に伝わる仏像に類例がみられる。その土壌にあって、本像もこの姿でつくられたのであろう(ほかに、円成寺本堂の四天王像も陀羅尼集経様の像である)。
さらに、本体と同じ姿が書かれた木札が納入されていることから、木札に書かれた文は造像時の願文と考えることができそうである。以上より、本像は1178年に奈良仏師によって制作された可能性が高いと考えられる(ただし、木箱の蓋の1160年銘をどう考えるかなど、課題も残るが)。
一方、多聞天像には右肩の木のはぎ目に墨書があり、1159年を示す年が書かれている。
造像にあたって関係者が書いた銘文であるという可能性もあるが、書かれた場所を考えると修理時の銘ということも考えられ、その場合、当然ながらそれより前の作となる(ただし永久寺の寺観が整うのは1140年前後と考えられており、それを大きくはさかのぼることはないと思われる)。
ところで、持国天像も幾度も修理されているようだが、多聞天像はさらに大規模に修理が施されている。相当に傷み、ばらばらに近い状態になったこともあったらしく、細かな材がたくさん補われている。たとえば首から上のつき方は、当初の様子に近いのか、それともかなり印象が違ってしまっているのかなど、推定は困難である。
なお、像内には数センチの小仏像なども納入されていたとの記録がある。また、鎌倉時代後期の修理銘がある(法橋慶円による修理)。
さらに問題を複雑にしているのが、納入品の混乱である。
両像は、江戸時代中期の18世紀半ばと近代の19世紀末と20世紀前半にも修理されている。そして修理の際に取り出され、別保管されているはずの納入品が失われているなど、混乱がみられるのである。
以上のように、像の構造が不明確で、納入品についても不明瞭であるという問題があり、この二天像の位置づけを分かりにくくさせているのである。
なお、銘文の詳細等は20世紀前半の美術院による修理時の報告によるが、写真はなく、手書きの記録となっている。
作者は運慶の父、康慶か
最後に、永久寺関係の古記録にこの二天像のうちの多聞天像のことかと思われる像についての興味深い記述があり、紹介したい。それは、多聞天像は康慶(運慶の父)の作という伝承があるが、康円(運慶の次の次の代を代表する仏師)はこの仏像はさらに古いといってこれを否定したという記事である。なかなか意味深長といえよう。
これについて、「持国天像は確かに康慶の作であるが」という意味が隠されているのだとして、持国天像を康慶(あるいは康慶の工房)作の仏像として積極的に認めていこうとする論考がある。
さらに知りたいときは
「内山永久寺伝来東大寺持国天像と興福寺他分蔵四天王像」(『仏教芸術』4)、塩谷(野口) 景子、2020年
「十二世紀第四四半期の神将像甲制と仏師康慶」(『仏教芸術』283)、野口景子、2005年11月
『鎌倉時代の彫刻』(『日本の美術』459)、三宅久雄、至文堂、2004年8月
『東大寺のすべて』(展覧会図録)、奈良国立博物館ほか、2002年
「永久寺旧蔵東大寺持国天像・多聞天像について」(『南都仏教』82)、大河内智之、2002
『奈良六大寺大観(補訂版)』10(東大寺2)、岩波書店、2001年
『内山永久寺の歴史と美術 調査研究報告書内山永久寺置文 研究篇』、東京国立博物館編、東京美術、1994年
『日本彫刻史基礎資料集成 平安時代 造像銘記篇』3、中央公論美術出版、1967年