春日奥山の石仏群
円成寺から高畑町へのハイキング
住所
奈良市忍辱山町、誓多林町、春日野町
訪問日
2014年3月23日
春日奥山を歩く
奈良の東、春日の山は古来神聖なところとされ、すぐれた石仏が多く残るところとして知られる。
さらに東の柳生地域にも室町時代の徳政碑文で知られる地蔵菩薩像など多くの石仏が残るが、今回はそこまで足を伸ばすことはせず、奈良市街東南の高畑町と円成寺を結ぶ東海自然歩道沿いの石仏を訪れた。
標高の高い円成寺の側から歩く方が楽と考えて、まず円成寺(柳生方面行きの奈良交通バスにて「忍辱山」下車)へ。お寺を拝観したのち奈良の市街方面をめざした。
この自然歩道は基本的には整備された遊歩道なのだが、ある程度しっかりした足ごしらえは必要。特に雨が降った次の日などは、ぬかるんで歩きにくい箇所があるので、避けた方が賢明である。やはり気候のよい時期がお勧め。
随所に案内板が立っているので、見落とさないように注意深く歩けば、迷うことはない。
全体として約10キロの行程で、ただハイキングを楽しむだけであれば3時間くらいで歩けるのかもしれないが、石仏をじっくり見ながら歩くことを考えると、円成寺を出てから奈良の街に入るまで5時間くらいと考えておくとよいと思う。
円成寺の石仏
円成寺の境内には、本堂と護摩堂のあいだに可愛らしい石仏が三体並んでいる。定印の阿弥陀仏を中央に、左右が地蔵菩薩像で、いずれも室町時代末期の作。
円成寺を出て、バスで来た方に数分戻ると左側に看板が立ち、自然歩道への入り口とわかる。石畳の道だが、それは最初だけで、基本的には舗装のない山道である。
遊歩道に入って数分進むと、六地蔵の石仏があるので、そこを左に入ると円成寺の境外の墓地がある。行き止まりまでのぼっていくと鎌倉時代の五輪塔があるが、そこに行く手前に道が左右に分かれるところに石造の七仏阿弥陀像が立っている。
蓮台に座った定印の阿弥陀像を上に1躰、その下に左右にお行儀よく3躰ずつを2列に、肉厚に刻み出す。その間に年(元亀2年とあるので、1571年)を、またそれぞれの仏の脇には「ゴ八」「マタ六」などといった名前を刻むという珍しいもの。
さきほどの六地蔵石仏のところへ戻り、先へと進む。と言っても、この先しばらくは石仏はない。もっとハイカーが歩いているかと思ったが、たまにすれ違う程度で、あとは鳥の声を聞きながらひたすら先へと進む。
35分くらい歩くと舗装道路(県道184号)にぶつかるので左折。ここからしばらくは舗装道路を歩くことになる。なお、ここまでは上り坂が多く、以後は下り坂が多くなる。
芳山の石仏
この県道を15分くらい進むと、T字路に突き当たる。ここで県道から離れ、右折(県道は左の道なので)。
この地区は誓多林(せたりん)町という。
まもなく右手の茶畑の丘の中に大きな石のお地蔵さんが立っているのが見える。これが五尺地蔵である。
さらに進むと右手に村の小さな祠を集めたようなこじんまりとした神社(八柱神社というらしい)がある。鳥居の右側についている細道が芳山(ほやま)石仏への道となっている。五尺地蔵とこの芳山石仏への入口については、案内表示はないので注意が必要である。
神社からの細道を数分進むと鉄の扉に行き当たる。一瞬行き止まりなのかと疑うが、扉は開くようになっている。さらに進むと2ヶ所くらいで方向を示す小さな案内があるので、それに頼りながら行くと、最後はかなりの急坂になって、この道で本当にいいのかなと思う頃に突然林間に空き地が開け、ごろりと大きな岩が置かれているのが見える。その2面に仏の姿が彫られていて、これが芳山石仏または芳山二面石仏(岩の西側と南側に1躰ずつ彫られている)と呼ばれる像である。
神社の入口から20分くらいかかった。
このように芳山石仏への道は最後は険しく、本道から外れているために訪れる人も少なく、途中寂しい思いもするが、しかしお勧めである。
この石仏は奈良時代後期の作ではないかと考えられている。中世や近世の石仏は多いが、古代までさかのぼれる石仏は少ない上に、摩滅もそれほどには進んでいないので、表情もよくわかる。像名は不詳。珍しい説法印の立像で、仏の姿の決まり事がまだ固まりきっていない時期の作だからであろう。顔の凹凸が上手につけられていて、表情がなかなか豊かである。西側の像の方が太めにつくられている。衣は、西側は右肩を見せ、南側の像は通肩であるというが、摩滅が進み、あまりよくはわからない。袈裟の下に裙を見せる。
像高はそれぞれ約130センチ。石は花崗岩である。
この石は以前は倒れていたというが、それにしても古代から今日まで千年以上の日々、奈良の東の芳山の山腹より人々の営みを見守ってきてくださった石仏と思うと、自然に頭が下がる気がする。
名残惜しいが、芳山の石仏を後に、来た道を神社のところまで戻る。
すぐ斜め前に公衆トイレあり。
さらに行くと、数分で峠の茶屋につく。江戸時代からこの場所で営業をしている店だそうで、うどん、そばや草餅を注文できる。
ここまでで全体の半分弱の行程である。
地獄谷の石窟仏
峠の茶屋から西にまっすぐに行くと次の石仏ポイントは春日山石窟仏なのだが、南側にオプションのようなコースがある。地獄谷石窟仏(地獄谷聖人窟)を通る国有林内の細道である。この石仏も奈良後期までさかのぼれるのではないかとされる。
峠の茶屋の主人にそこに至る道について聞いてみたところ、「怖いようなところ」という答えが返ってきた。
茶屋から300メートルくらい行くと道しるべが立っているので、地獄谷石窟への入口はすぐわかる。
なるほど、難所である。左右がすぐ谷となっている細道をゆき、次第に道は険しい下り坂となる。谷底近くまで下がって、また上る。一本道なので間違いようがないが、なかなか石仏に着かず、不安になったころ、突然右手に柵が現れた。石窟仏はその奥、凝灰岩をくり抜いた岩窟の壁面に線刻されている。柵からはやや距離があるものの肉眼でもまずまず見えるが、一眼鏡のようなものがあるとなおよい。
かかった時間は、峠の茶屋から25~30分くらいと思う。
像は6体あるが、残念ながら左右の壁面の仏像は見る位置からの角度の問題と摩滅が進んでいるため、よくわからない。正面の如来形坐像(尊名不詳)を中尊として、薬師如来立像と十一面観音立像を従えた三尊像は、比較的姿がわかる。特に中央の如来像は気品ある像である。一眼鏡で見ると、衣の線が実にていねいに彫られているのがわかり、感動的である。
春日山石窟仏
地獄谷石窟をあとに西へと向かい、奈良奥山ドライブウェイを突っ切る。しばらくハイキングロードを行くと地獄谷新池というかなり大きな池のもとに出るので、その東岸を北へ、最後は急な上り坂になって、春日山石窟に至る。
地獄谷石窟から徒歩25~30分。
随所に案内表示が整備されているので、気をつけて歩いてゆけば迷うことはないが、このあたりまで来ると疲れも出てくるので、うっかりすると注意が散漫になり、道しるべを見落としたり、読み間違いをしたりすることがないように。とにかく無理ないペースで歩くことをお勧めする。
春日奥山の森の中に点在する石仏中、春日山石窟仏(石切り峠穴仏)は質、量とも他を圧する仏像群である。平安時代末期の作。
ただし、損傷も進んでいる。覆い屋で保護され、金網越しに見学する。
凝灰岩の岩窟で、破損仏を含み、全部で18躰の像が浮き彫りにされている。窟は南面し、大きく東側と西側にわかれる。
東側(東窟)は間口約2メートル半、奥行き、高さとも約180センチあり、中央には柱のごとき部分が彫り残されている。柱の根元、四面には如来坐像を刻む。
東側の面には天部像1躰と菩薩像3躰を刻むが、破損が著しい。西側の面には天部像1躰と地蔵菩薩像4躰を刻む。これらはすべて立像である。あるいは、今は失われた像がまだあり、六観音、六地蔵が揃ったセットであったのかもしれない。地蔵菩薩像のうちの3躰は状態がよく、菩薩というよりはややくせのある人間のような味わいある顔つきを見せている。地蔵菩薩は錫杖を持たない古式な姿をしている。
西側の窟は間口約4メートル、奥行きは約2メートルだが、比較的高さがなく(約150センチ)、そこに如来坐像が4躰南向きに並び、一番西には東向きに天部立像が彫られている。天部像は左手で宝塔を掲げていて、多聞天像と分かるが、残念ながら顔は破損している。しかし体をくねらせるようにして動きを出し、どこかかわいげのある邪鬼を踏み、頭のまわりには火炎のような筋がゆらめく姿で、なかなか面白い造形である。
如来坐像のうちでは向かって一番左の像が状態よく、大きな肉髻、螺髪は刻まず、丸い顔だち、体つきもまるっこい。手は腹前で構えて、定印であろうか。するとこの像は阿弥陀如来像であるのだろう。その右の右の像は顔は大きく破損しているが、手は胸の前で組んでいるようであり、この像は左右の如来像よりも若干大きいので、この像が大日如来像で、まわりの像とともに五智如来像を形成していたと考えられる。
この西窟の4如来の真ん中に刻銘がくっきりと残されていて、作者名として今如房願意と書かれているが、この人物については不詳。また、その近くには保元二年(1157年)の年が墨書されているというが、これは肉眼ではわからない。
朝日観音と夕日観音
春日山石窟仏を見たあと、今来た正面の急坂を下り、案内矢印に従って分岐を右へ。10分弱で「首切り地蔵(滝坂道地獄谷首切り地蔵)」に至る。
首のところで折れて修復されているためにこの名があり、江戸時代前期の剣客、荒木又右衛門が試し切りをした等の伝承があるらしい。
宝珠と錫杖を持った大きなお地蔵さまの立像で、鎌倉時代後期ごろの作。
そばに公衆便所がある。
ここからは谷川(能登川)沿いの下り坂、江戸時代につくられた石畳の道となる。滝坂道といい、かつて奈良と柳生を結んで物資の往来で賑わった道だという。
この道沿いに点々と石仏が見られるが、特に優れたものは、朝日観音と夕日観音と呼ばれる鎌倉時代の石仏である。
首切り地蔵から10分弱下ったところ、谷川を挟んで向い岸の岩に彫られている三尊石仏が朝日観音(滝坂道弥勒三尊磨崖仏)である。
東を向いて立っているために、朝日があたる観音像としてこの名があるようだが、実際には中尊は如来形の立像で、脇の像は地蔵菩薩立像である(ただし向かって右側の地蔵菩薩像は、彫ってある位置や大きさ、体つきの印象が異なるので、後の時代に加えられたものかと思われる)。
如来像は衣を通肩に着て、施無畏、与願印をつくり、直立する。肉眼では見えないが、銘文があって、「上生内院」と刻まれているそうで、弥勒のいる兜率天への往生を願ってつくられたものであり、この像は弥勒如来像であるとされている。ただし、兜率天で現在説法をしているのは弥勒菩薩であり、遠い将来に如来として下生をするので、「上生」の信仰であるのに如来姿であるというのが若干ひっかかるが。
左右対称性が強く、四角張り、やや扁平な印象がある。印象深い姿の像である。鎌倉時代後期の1265年、1267年の刻銘があるというが、肉眼ではわからない。
そこからまた数分下ると夕日観音(滝坂弥勒立像磨崖仏)を示す立て札がある。
近くには地蔵菩薩の磨崖仏もあるが、夕日観音らしい像は見えない。いろいろと見回したところ、立て札を正面にしてそのまままっすぐに首を上に向けていくと、崖のずっと高い位置の岩に前傾姿勢で彫られている像とわかった。
朝日観音の中尊よりは細面、体も細身であるが、通肩、施無畏与願印であることが共通し、この像も弥勒如来像なのであろうか。
この滝坂道は柳生へ、さらには笠置まで通じていたということで、当時弥勒信仰のメッカでもあった笠置寺へと通じる場所として、弥勒の像を刻んだのかもしれない。
ここから10分余り下ると、道は舗装道路になり、能登川も南へと去る(この川は岩井川、佐保川へと流入し、最終的には大和川となる)。まもなく高畑町へと入り、白毫寺、新薬師寺、破石(わりいし)町バス停も近い。
さらに知りたい時は…
「春日山石仏群をめぐる」(『ならら』148)、2011年1月
『日本の石仏200選』、中淳志、東方出版、2001年
『石仏』(『日本の美術』147)、鷲塚泰光、至文堂、1978年8月
「芳山石仏探訪記」(『萌春』268)、森野勝、1977年8月
『日本彫刻史基礎資料集成 平安時代 造像銘記篇』8、中央公論美術出版、1971年