円成寺本堂の四天王像
全員が右手を挙げる四天王
住所
奈良市忍辱山町1273
訪問日
2009年12月6日、 2014年3月23日
この仏像の姿は(外部リンク)
拝観までの道
円成寺(えんじょうじ)までは、円成寺多宝塔の大日如来像の項をご覧ください。
拝観入口を通るとすぐ右に多宝塔、その先に本堂、本堂に向って左に護摩堂、右に白山堂・春日堂がたっている。
拝観料
400円
お寺のいわれなど
円成寺の創建の事情は分からないことが多い。
12世紀前半に南山城の迎接(こうしょう)上人が阿弥陀堂をつくって阿弥陀仏をまつり、12世紀半ばに京都の仁和寺から寛遍僧正がこの寺に来て伽藍を整備したと伝える。その後興福寺の末寺となり、鎌倉時代にはかなり栄えた寺院であったらしい。
境内の白山堂・春日堂は円成寺の鎮守社で、鎌倉前期に奈良・春日社の旧社殿を譲り受けたもの。こうした建物の存在も、円成寺が当時興福寺や春日神社と密接なつながりがあったことを示している。
本堂は、室町時代中期の兵火にかかって焼け、その後の再建である。1958年より解体修理が行われ、その結果現在の本堂は焼けた元の本堂と同じ規模、様式によって再建されていることがわかった。
本堂に入るとどことなく仏堂というよりは貴族の邸宅のような雰囲気を感じるが、それは寝殿造りの影響を受けた阿弥陀堂建築を引き継いで再建されたお堂であるからのようだ。
拝観の環境
四天王像は本尊厨子の周囲に安置されている。
本堂内はやや暗い。また、堂内の柱には聖衆来迎の姿が描かれていて、それも見どころなのだが、柱の外側に結界が置かれているので、前からは像まで距離がある。ただ、内陣の回りをぐるりと回れるようになっているので、四天王像は斜め前や横からは近い距離で拝観できる。
仏像の印象
四天王像は像高110センチ前後。ヒノキの寄木造。彫眼。
持国天像の台座裏に鎌倉時代前期の1217年を示す墨書銘があり、鎌倉時代の四天王像の基準作例である。
持国天は大きく翻る派手な兜をつけ、右手を挙げる。増長天はやはり右手を挙げ、左手は腰につける。まげは亡失。広目天は右手を少し挙げて巻物をとり、下げた左手で筆を持つ。多聞天は持国天同様派手な兜を着け、宝塔を右手で高く掲げる。この像のみ脛当てでなく足首まで垂れる袴をつけていて、珍しい。
4躰とも細身で、腰高。やや動きが生硬で、ぎこちない感じが否めない。しかし、頭、口の開き、鎧のヒモの様子、手の位置、裾の表し方など4躰それぞれに変化をつけていて、入念な造形と思える。
彩色は、かなり落ちているが、当初のものが残っているのも貴重である。
円成寺の四天王像の特色
四天王は東方を担当する持国天、南方の増長天、西方の広目天、北方の多聞天からなる強力な仏教の守護神のチームである。リーダー格は宝塔を掲げる多聞天である。
この4像を壇の四隅に置く際、多くの場合方角を45度ずらして、持国天を東南、増長天を西南、広目天を西北、多聞天を東北に配置する。この円成寺本堂もそうだが、お堂は南向きであることが多いので、持国天と増長天が前方にくる。
ところで、四天王像を壇上に安置するお寺は多いが、その姿はさまざまである。多聞天だけは宝塔を掲げるという原則にのっとった姿であることが多いが、それも右手で捧げる像もあれば、左手の場合もある。体の前に差し出すような姿もあれば、高く掲げるものもあるといった具合であり、他の像はさらに一様でない。
ただ、持国天は左手を挙げて左足を出し、増長天はその逆に右手を挙げて右足を一歩踏み出すといった相称系で表されているものが比較的多いように思われる。
ところがこの円成寺像は4躰すべてが右手を挙げている。これは非常に稀な姿の四天王像ということができる。
「陀羅尼集経様」の四天王像
四天王像に限らず、仏像が手にしている持物(じもつ)は、後世のものに代わっていることが多い。地震や洪水などの天災があったり、火災で避難させたり、戦場になったり、寺が衰退して荒れ果てた時期があったりと、数百年間の転変の間に必ずといっていいほど当初の持物は失われる。それどころか、手が後補となって、姿が変わっていることも稀ではない。また、像の位置が入れ替わるということもある。実は円成寺の四天王像も位置の入れ替わりがある。
円成寺の四天王像は、当初の彩色が割り合いよく残っていることはすでに書いた。四天王像の肉身は、一般的には持国天は青(緑青)、増長天は赤、広目天は白(薄い赤色)、多聞天が黒(群青)であらわされることが多い(別の色をあてるものもあるが)。ところが、円成寺の像は持国天像が薄い赤色、広目天像が緑青なので、この2像が入れ替わっていると考えられる。
『陀羅尼集経』(だらにじっきょう)というあまり聞かない名前のお経がある。これはさまざまな尊像の印相や供養法を集成したお経で、四天王の姿も具体的に記述されている。しかしこのお経の記述に忠実に従った四天王像はあまり造られなかったようだ。
円成寺のこの4躰とも右手を挙げた四天王像は、陀羅尼集経に述べられる姿でつくられた像である可能性が高い(ただし持国天と広目天を入れ替え、かつ持物を補った場合)。
ところで、1180年の南都焼打ち後に再興された興福寺講堂四天王像(院尊作)は、現在は伝わらないものの、画像が残る。その姿形は円成寺四天王像に非常に近い。当時の円成寺が興福寺と密接な関係があったことを考えれば、円成寺の像は興福寺講堂の四天王像の影響のもとでつくられた可能性がある。
その他
円成寺の本堂本尊は平安時代後期の阿弥陀如来像。定朝様式の仏像で、半丈六、定印。厨子内に安置されているが、前と横の扉が開かれていて、拝観できる。光背は透かし彫りの周縁部まで当初のもので、大変貴重。厨子は本堂と同じ室町時代のもの。
ほかに本堂内には十一面観音像(平安時代)や聖徳太子像(納入品から1309年の作とわかる)などが安置される。
護摩堂安置の僧形文殊像は、墨書銘から鎌倉後期の1270年、仏師堯慶の作と知られる。
また、本堂と護摩堂の間には、室町時代に石仏がある。
さらに境内を出て、東海自然歩道に入ってまもなく左手にはこのお寺の墓地があり、そこでも古い石仏がある。さらに自然歩道を奈良の市街の方へと行くハイキングロードは、春日奥山の石仏群を見ることができるコースとして知られる。
さらに知りたい時は…
『日本彫刻史基礎資料集成 造像銘記篇 鎌倉時代』3、中央公論美術出版、2005年
「円成寺阿弥陀如来坐像」(『日本彫刻史論叢』所収)、西川杏太郎、中央公論美術出版、2000年
「興福寺四天王像の再検討」(『美術史』147)、瀬谷貴之、1999年
「陀羅尼集経様四天王像の日本における受容と展開」(仏教芸術』239)、瀬山里志、1998年7月
『新薬師寺と白毫寺・円成寺』、(『日本の古寺美術』16)、保育社、1990年
『四天王像』(『日本の美術』240)、猪川和子、至文堂、1986年5月
『大和古寺大観4 新薬師寺・白毫寺・円成寺』、岩波書店、1977年
「鎌倉仏師の慶派仏師の2作例」(『仏教芸術』96)、松島健、1974年4月