観心寺霊宝館の伝宝生如来・弥勒菩薩像
平安時代前期の名像
住所
河内長野市寺元475
訪問日
2011年4月17日、 2018年8月12日
この仏像の姿(外部リンク)
拝観までの道
南海線、近鉄線の河内長野駅前の3番バス乗り場から「金剛山ロープウェイ前」「小吹台」方面行き南海バスで「観心寺」下車。
バスを下りると、観心寺まで150メートルという表示があり、それに従って進んで行くと山門前に出る。
拝観料
拝観料は通常300円(本尊ご開帳の4月17日、18日は700円)
お寺のいわれなど
観心寺は9世紀前半、実恵(じちえ)とその弟子真紹(しんじょう)によって、あるいは真紹が単独で創建したのがそのはじまりである。
9世紀後半に作成された『観心寺縁起資財帳』に、講堂の安置仏として記載される如意輪観音像が、現金堂本尊の如意輪観音像と考えられている。
観心寺にはそのほかにも数多くの平安仏を伝え、それらは本堂の西側に少し離れて立つ霊宝館(宝物館)に安置されている。
平安時代中期以後、各地に荘園を領し、栄えた。この寺に伝わる仏像群は、あるいはその一部は他寺院から入って来たものもあるのかもしれないが、当時の繁栄ぶりをしのばせる。
南北朝時代になると、南朝側と強く結びつき、後醍醐天皇のために修法を行うなどした。楠木正成の首塚や後村上天皇の陵墓も寺域にある。
南北朝時代が終わると、河内に勢力をもつ守護大名・畠山氏にはたらきかけて寺領の回復をはかり、またその後も豊臣氏の援助、江戸幕府の保護を受ける。
拝観の環境
観心寺霊宝館は、まさに平安期木彫像の宝庫である。
まずは、安置されている主要な仏像を列記すると、入って右側には聖観音像、十一面観音像の2躰。正面には、向って右から地蔵菩薩像、伝宝生如来像、伝弥勒菩薩像、如意輪観音像、伝薬師如来像、伝釈迦如来像、聖観音像、十一面観音像の計8躰。そして左側には聖観音が2躰ならぶ。全部で12躰、そのすべてが平安時代の木彫像で、1躰ずつのガラスケースに納められて安置され、壮観である。
館内は明るく、比較的ガラスの写り込みは少なく、よく拝観できる。
それぞれのケースは近接するので、横から見ることはできないが、隣のケース越しに斜めからの姿はわかる。
立像の仏像について
霊宝館安置の12躰の平安仏のうち、立った姿の仏像が7躰ある。地蔵菩薩像が1躰で、他は聖観音像と十一面観音像である。
まず、地蔵菩薩像だが、像高は約165センチ。ボリュームのある体躯がたいそう魅力的な像である。
やや首を傾けるのは、もともとの木の形が像にあらわれたためであろうか。よく見ると多くの仏像で、左右の対象や正中線が崩れているものは多く、それが魅力となっていることがあるが、この像などまさにその好例といえる。
左肩は袈裟を、右肩はその下の衣を見せ、下肢これらの布が重なりあっているが、その衣の下にもう一枚、袖のところが下が閉じている衣を着けているのは珍しい。神像の雰囲気をもつ像である。
聖観音像と十一面観音像は6躰を数えるが、実はこのほかにもさらに2躰、東京国立博物館と奈良国立博物館に寄託されている聖観音像がある。これら聖観音像、十一面観音像をすべてあわせると8躰となり、そのすべては金堂本尊の如意輪観音像の眷属であるとお寺では説明している。しかしながら作風はばらばらで、本来の一具ではない。多くは地方的な作風であり、頭と体のバランス、顔つきが締まっているか、姿勢はまっすぐかややゆがみが出ているか、条帛、天衣、裙の意匠はどうかなど、それぞれ異なっていて、比べて見ていると時を忘れる。
坐像の仏像について
次に坐像の仏像を見ていこう。
5躰あり、如意輪観音、伝宝生如来、伝弥勒菩薩、伝薬師如来、伝釈迦如来の各像である。
如意輪観音像は、本尊を作成する前に空海が試みにつくったとの伝承がある。実際には金堂本尊像よりあとの平安時代後期の作。像高約60センチ、カツラの割矧(わりは)ぎ造。
他の4尊は、塔の四仏であった像である。
現在観心寺には塔はないが、「建掛塔(たてかけのとう)」という名の小さな建物が金堂の斜め前にある。
この建物は本来は塔で、お寺では後醍醐天皇の命を受けて楠木正成が造立にあたっていたが、その途中で出陣し討ち死にしてしまったために、一層めしか出来上がらなかったとお寺では伝えている。しかし、史実としては、15世紀の火災後に再建された塔が17世紀の水害で大破し、上層部が失われたものらしい。
この塔内の四方に安置されていた四仏が霊宝館に移されているのだが、作風や構造は異なっていて、元からの一具ではない。
伝薬師如来像は像高約90センチ。割矧ぎ造。膝の衣の線は穏やかで、平安時代後期の像である。
伝釈迦如来像は像高約80センチ。内ぐりもない古様な一木造で、量感に富み、衣文の線も太い。平安時代前期から中期の魅力的な像である。
この2像の造像年には、おそらく200年くらいの差があると思われる。表面の傷みが目につくためもあって、一見すると同じような古仏という印象があるが、よく見ていくと、顔の締まり方、上半身の量感、膝の厚みなど、それぞれつくられた時代の特色がよく現れていることがわかる。
伝宝生如来像と伝弥勒菩薩像について
観心寺建掛塔の四仏のうちの伝宝生如来と伝弥勒菩薩は、像高各110センチほどの坐像。互いによく似て、もともと1具であったと考えられる。
まげを大きく結い、やや四角ばった顔、上半身はたくましく、下半身はどっしりとして、衣文の線を太くあらわす。胸の下に強く陰刻線を入れて、ふくらみを強調している。脚部の大部分まで含めての一木造だが、仕上げには乾漆を使っている。表面の漆箔は後補。
上半身は幅広の条帛をつけ、下半身は裙に腰布をつける。
腕の構えは違っていて、伝宝生如来像では、左手は肘を曲げててのひらをこちらに向け、右手は腰のあたりで握る(持物を握っていたと思われるが、亡失)。伝弥勒如来像は腹の前でてのひらを重ねる。
さて、霊宝館の他の仏像を見渡しても、この2像に似た雰囲気をもつ仏像はない。むしろ近いのは、金堂本尊の如意輪観音像である。大きなまげ、太い衣文線、膝の大部分まで一材から彫り出すところ、乾漆で仕上げているところなど、相通ずる部分が多い。像高もほぼ同じである。また、やはり9世紀彫刻の代表作である、京都・安祥寺の五智如来像(京都国立博物館寄託)ともよく似る。こうしたことから、この伝宝生如来像、伝弥勒菩薩像もまた平安前期彫刻の遺例であるとされ、重視されてきた。
ところで、9世紀後半につくられた『観心寺縁起資財帳』には講堂(現在の金堂の前身のお堂と考えられている)の安置仏として、7躰の仏像が列挙されている。そのうち、特に重要な仏像は、「金色仏眼仏母菩薩像」、「金色弥勒如来像」、「綵色如意輪観音像」の3躰と考えられるが、そのうちの如意輪観音像が現在の金堂本尊である。一方、仏眼仏母像と弥勒如来像は失われてしまったと考えられていた。
霊宝館の伝弥勒菩薩像、伝宝生如来像こそが、その仏眼仏母像、弥勒如来像ではないかと最初に論じたのは、久野健である。久野は図像集にある仏眼仏母や弥勒菩薩の姿を精査し、この観心寺の2像がそれらにあたることを指摘した。この指摘は、現在は定説となっている。
これら2像は、非常に珍しい仏眼仏母如来像の彫刻遺例、また密教系の弥勒如来像の遺例としてはなはだ貴重な像ということができる。
光背は亡失。台座は一部後補だが、ほぼ当初の形をとどめる。
本堂本像の如意輪観音像とこの2像は像高はほぼ同じであるが、台座の高さは若干如意輪観音像の方が高い。当初は如意輪観音像を中尊のように、この2像を脇侍のようにして安置していたのかもしれない。
しかし、これら2像を、かつては如意輪観音像とともに一堂にまつられていた仏像であるとして改めて見直してみた時、ややもの足りなさというか、違和感を感じないでもない。
その理由としては、伝宝生如来像、伝弥勒菩薩菩薩像は、金堂本尊にくらべれば表情がやや鈍く感じられること(ただし、それは表面の後世の補修のために魅力が減じているということもあるが)、もうひとつは、如意輪観音像が左右にすらりと手を伸ばして豊かな空間を作り出しているのに対して、全体の雰囲気に伸びやかさが感じられないことである。特に伝宝生如来像は腕が縮こまりぎみに感じる。
しかし、脚部の安定感や大きく存在感のあるまげ、斜めから見るとわかる堂々と厚みのある胸は、ほんとうに素晴らしい。これら2像が平安前期の密教系彫刻の代表例であることは確かである。
その他
最後に、鉄燈籠を紹介したい。
かつて本堂前に立っていた、高さ2メートル以上ある鉄の燈籠。現在は傷みが進み、上の火舍(かしゃ)と下の竿にわけて、霊宝館に置かれている。
火舍は6面の格子がつけられ、うち4面に小さな四天王像が浮き彫りされている。鉄という扱いにくい素材であり、かつ長年屋外に置かれていたにもかかわらず、軽快な像の雰囲気がよく伝わる。
竿の上半分に銘があり、鎌倉前期の1233年の作と分かる。
さらに知りたい時は…
『図説河内長野市史』、河内長野市、2010年
『日本彫刻史の視座』、紺野敏文、中央公論美術出版、2004年
『河内長野市史1−下 本文編』、河内長野市史編集委員会、1997年
「観心寺観音菩薩立像について」上・下(『Museum』531、532)、岩佐光晴、1995年5月、6月
「観心寺草創期の造仏と真紹」(『岩手大学教育学部研究年報』41巻2号)、田中惠、1982年
「観心寺の仏像」上・下(『仏教芸術』119、121)、西川新次、1978年8月、12月
『日本彫刻史基礎資料集成 平安時代 重要作品篇』3、中央公論美術出版、1977年
『平安初期彫刻史の研究』、久野健、吉川弘文館、1974年