観心寺如意輪観音像
4月17日、18日に開帳
住所
河内長野市寺元475
訪問日
2011年4月17日
拝観までの道
南海線、近鉄線の河内長野駅前の3番バス乗り場から「金剛山ロープウェイ前」「小吹台」方面行き南海バスで「観心寺」下車。
バスを下りると、観心寺まで150メートルという表示があり、それに従って進んで行くと山門前に出る。
金堂の本尊、如意輪観音像は秘仏で、毎年4月17日と18日の2日間開帳される(この日は河内長野駅からシャトルバスも運行される)。
拝観料
通常300円だが、ご開帳の日は700円
お寺や仏像のいわれなど
観心寺には国宝3件、重要文化財多数が伝来する。
国宝3件は、金堂、金堂本尊の如意輪観音像、そして9世紀後半に書かれた寺の財産目録である『観心寺縁起資財帳』である。
観心寺の前身は、奈良時代以前に役行者が開いた雲心寺であるというが、伝承の域を出ない。
創建は9世紀の前半で、空海の弟子、実恵(じちえ)とその弟子真紹(しんじょう)によってつくられた。 真紹が河内山中のこの地に居住し、道場を設けて観心寺と号したのがそのはじまりで、今日まで一貫して真言宗寺院である。
私的な寺としてスタートした観心寺だが、869年に定額寺(いわば準官寺)に列せられた。その財産目録として今日まで寺に伝わったものが、『観心寺縁起資財帳』である。長さ10メートルのわたり、諸堂ごとに仏像、仏画、経巻、そして寺領の田地ならびに寺の歴史(縁起)を記述していて、観心寺の草創期の様子がわかる貴重な史料となっている。
この『資財帳』によれば、初期の観心寺には金堂はなく、如法堂と講堂が中心堂宇であった。如法堂という珍しい名前のお堂は、ほとんど仏像は置かれず、胎蔵界曼荼羅などの仏画を安置していた。
一方、講堂は嵯峨天皇皇后で仁明天皇の母である橘嘉智子(かちこ、檀林皇后とも)の発願によってつくられたお堂であったようだ。『資財帳』によれば、金色の仏眼仏母像と弥勒如来像、檀色の薬師如来像、綵色(彩色のことと考えられる)如意輪観音像などが安置されていたと知られるが、本尊がこの中のどの仏像であったかははっきりしない。
現在、観心寺の中心をなすお堂は金堂だが、これは創建時の講堂の後身らしい。
現金堂は室町時代前期の建物で、折衷様(せっちゅうよう、鎌倉時代以前からの様式である和様と鎌倉時代に中国から伝わった禅宗様、大仏様が合わさっている)の建築として名高く、高校の日本史教科書にも載る。堂内には両界曼荼羅壁が設けられ、本格的な真言密教本堂のつくりをとっている。
本尊の秘仏・如意輪観音像は、9世紀の前半からなかばにかけての作で、講堂安置仏として『資財帳』に記されている像と考えられている。
この像に比較的近い、京都・神護寺の五大虚空蔵菩薩像が、やはり記録から840年から850年ごろにかけての作として知られるが、本像と神護寺五大虚空蔵菩薩像では全体の印象はかなり異なる。神護寺像に限らず、本像と似た雰囲気をもつ仏像は他にはない。
観心寺如意輪観音像は、いわば奇跡の造形である。
拝観の環境
観心寺の拝観時間は9時から17時だが、秘仏拝観は10時から16時。
筆者は10時少し前に着いたが、すでに拝観ははじまっていた。
この仏像は大変名高く、一目お会いしたいと全国から拝観者が来ることで知られる。さらに、私が訪れたご開帳の日は日曜日にあたっていたので、例年より拝観者は多かったらしい(あとで聞いたところでは、一時は金堂から山門までの列ができたという)。
毎時00分と30分よりお坊さんのご説明があり、それが20分くらい続く。その間拝観者は座ってお話を聞き、終わると入れ替わりながら前に出て拝観。やがて次の回の説明がはじまると、皆さんその場所で座るという拝観の方式。
本堂は内陣と外陣が格子で仕切られているが、拝観の日は格子が上げられて、須弥壇前の護摩壇の前まで入ることができる。
本尊は厨子中だが、明るいライトに照らされているので、ある程度離れてもまずまず見える。
仏像の印象
像高は110センチ弱。等身よりやや大きいサイズだが、実物を前にすると写真で見ていたときよりも大きく感じる。像の存在感ゆえであろう。
6本の腕を持ち、右足を立てて座る、我々がよく知る如意輪観音像の姿である。
カヤの一木造。上腕の半分まで、また膝の大部分まで一材から彫り出し、後頭部、背中、像底からくりを入れている。全面に数ミリの厚さで漆を使って盛り上げ、その上に施した彩色が、非常によく残っている。おそらく早い時期から秘仏となっていたのであろう。白っぽい肌の色や、衣の緑系や朱色系の色は褪せながらもよく分かり、顔の瞳、眉、くちびるの色も鮮やかにわかる。
冠をつけ、その上部にわずかにまげが見えるくらいに髪を高く結っている。顔は四角い印象で、夢見るような顔立ちはもはや人には似ず、これこそ菩薩の顔だと感じる。肉づきはよく、二重あごになっている。
6本の腕の位置が絶妙である。頬に添えるポーズはいわば如意輪観音のトレードマークだが、この手(右第一手)は他の如意輪観音像には似ず、腕を下げて、肘がぐっとVの字になる。右の第二手は第一手の肘の裏を通って胸前で宝珠をとる。斜めに下げて数珠を持つ右第三手と、膝の外側に下がる左第一手は、すらりと長く伸び、美しい。蓮華を持つ左第三手は、一手の腋の下からこちらに突き出してくるように見える。そして最後に左の第三手は、第一手の上腕の後から控えめに掌を出し、人差し指を立てて法輪をのせる。
3本ずつの腕の付け根となる幅広の肩、左右、前後に変化をつけながら重なる細い腕、それぞれに表情のある指の形、どれをとっても変化に富んでいる。
さらに、顔がわずかに右(向って左)に傾く。そのために光背の中心と頭がずれているのも動きを感じさせ面白い。
一般的に坐像の仏像は頭から膝にかけてきれいな二等辺三角形の形をしていて、それが端正な美となっていることが多いが、この仏像の姿は二等辺三角形にはおさまらない。不等辺の5角形といったところか。
腰布を着け、お腹の下で大きく結び目をつくる。脚部はどっしりしたつくりで、太さを強調する立てた右足も、左足の腿から腰へのラインも、ともに魅力的である。
冠、光背、台座はヒノキ製。
持物は後補。また手足に一部後補部分がある。
* この仏像の姿は「ウィキペディア」の「観心寺」の項で見ることができます。
→ http://ja.wikipedia.org/wiki/観心寺
その他
金堂内の他の仏像について紹介しておく。
本尊厨子に接して左右に大きな厨子がつくられていて、そこには不動、愛染の両明王像が安置されているという。秘仏で、開扉はされないとのこと。共に中世の作だが、不動明王像の方が古く、南北朝時代、後醍醐天皇による再興像と考えられている。写真で見ると、なかなか迫力ある優品である。愛染明王像はもう少しあとの作らしい。
これら須弥壇上の3つの厨子の前方に四天王像が安置されている。通常四天王は壇の4隅に置かれるが、このお堂では1列に、向って右から多聞天、持国天、増長天、広目天の順に並ぶ。
像高は1メートル半前後で、一木造、内ぐりのない古様なつくり。やや垢抜けない表現ながら、体を前後にまた左右にひねり、足を上げ、腕を振って袖を翻すなど、それぞれ面白い。本尊が一身にライトを浴びているのに対して、控えめな脇役で目立たないが、ぜひお見逃しなく。
本尊のご開帳の日以外は、本堂内は暗く、内外陣の間は格子で仕切られているとのことで、四天王像もこの日にあわせて拝観するしかないようだ。
本堂の西側に少し離れて立つ霊宝館は、観心寺の宝物館である。こちらは通年で公開されているようだが、一部の仏像(数躰の小仏像)は普段は展示されず、本尊の開帳にあわせての公開としているようである。
さらに知りたい時は…
『平安密教彫刻論』、津田徹英、中央公論美術出版、2016年
「観心寺如意輪観音像 再考」(『美術研究』413)、佐藤全敏、2014年10月
『図説河内長野市史』、河内長野市、2010年
『日本彫刻史の視座』、紺野敏文、中央公論美術出版、2004年
『河内長野市史1−下 本文編』、河内長野市史編集委員会、1997年
「観心寺草創期の造仏と真紹」(『岩手大学教育学部研究年報』41巻2号)、田中惠、1982年
「観心寺如意輪観音像の模造に携わって」(『月刊文化財』219)、小野寺久幸、1981年12月
「観心寺の仏像」上・下(『仏教芸術』119、121)、西川新次、1978年8月、12月
「観心寺の創立について」(『仏教芸術』119)、福山敏男、1978年8月
『日本彫刻史基礎資料集成 平安時代 重要作品篇』3、中央公論美術出版、1977年