本山寺の毘沙門天像
年に3度のご開帳
住所
高槻市原3298
訪問日
2010年5月9日
拝観までの道
高槻駅北口の1番バス乗り場から高槻市営バス原大橋行きに乗車、20分弱で「神峰山口(かぶさんぐち)」(終点のひとつ前)に着く。バスの本数は日中1時間に2〜3本。本山寺はそこから徒歩1時間10分くらい歩いたところにある山寺である。
→ 高槻市営バス
バスを下り、東に向う道に入る。5分くらい行くと、おそば屋さん(日曜日のみの開業?)があり、その脇の細道に入る。行くこと数分でまた舗装道路に出るので、さらに登って行くと、神峯山寺(かぶさんじ)というお寺の前を通る。ここまで15分から20分。そのあともずっと上り坂が続き、特に神峯山寺の仁王門から15分くらい先の川久保方面への分岐点あたりと、最後の約900メートルはなかなかきつい急坂。まわりには人家はないが、さらに北の京都府との境の山々をめぐるハイカーらがよく通るので、寂しい道ではない。また、道しるべが随所に整備されている。なお、最後の急坂の手前に参拝者用駐車場がある。
本尊は毘沙門天像で、年に3日のご開帳と定められている。1月3日、5月第2日曜日、11月第2日曜日の午後1時から3時ごろ。事前に電話を入れて行くとよい。
拝観料
志納
お寺のいわれ
天台宗の寺院。
役行者によって開かれ、奈良時代末に光仁天皇の皇子である開成(かいじょう)皇子が創建したと伝える。
近世には、この地の領主高山飛騨守、右近父子によって寺領を安堵されたとの記録が寺に伝わる。飛騨守と右近はキリシタン大名として知られ、領内の寺社は迫害されたが、そのような中にあってもこの本山寺は一目置かれたのであろうか。16世紀後半に兵火にかかるが、豊臣秀頼によって再建された。
このお寺には2つの門がある。「勧請掛け」という縄を下げた簡素な門は、いかにも山岳寺院らしい。その先に小さいながらも品のよい門が建つが、これは秀頼の再建の際に伏見城から移建されたものと伝える。
江戸時代には皇室や徳川家からも崇敬を集め、18世紀初頭には徳川氏によってお堂の改修が行われた。
拝観の環境
本尊の毘沙門天像は、本堂裏に接続してつくられた耐火建築のお堂の中に移されている。やや高い位置に安置されるが、よく拝観できる。
仏像の印象
像高は約150センチ。邪鬼をふまえ、左手で宝塔をささげ、右手は高く挙げて戟をとる通有の姿である。
兜をかぶり、顔は老練な武将を思わせる渋い表情で、魅力的である。
体部は顔に比べてつややかで新しそうな感じがする。後世の手が入っているらしい。案内くださったお坊さんによると、明智光秀方の武将がこの寺に閉じこもり、戦局利非ずと火を放った。その時、当時の住職が本尊の首だけをかろうじて救い出したので、体は江戸時代の補作なのだと説明くださった。
そうだとしても、安定感がある姿勢、引き締まった腰、のびやかだがわずかにひねりをいれた上半身は、なかなかすぐれたできばえだと思う。
本堂内にはほかに2躰、毘沙門天像が安置されている。
堂内中央の厨子内にある兜跋毘沙門天像は、本尊のお前立ちとしてもともと厨子の前に安置されていた像。向って右側の壇には 多面多臂で獅子に乗る異形の毘沙門天像(上杉謙信が信仰していたのはこの形の毘沙門天とのこと)が安置されている。
そのほか、不動明王像、廃寺となった末寺から移されて来た大日如来像、珍しい宇賀神像(蛇体に老人の顔を持つ像。通常弁才天像の頭部に乗っている像が独立してまつられている)や荼枳尼天像が安置され、拝観できる。
その他
本堂を出て右側の高台に土蔵つくりの小さなお堂があり、開扉されていた。開山堂だそうで、役行者像や山岳の寺院を多く開いたという伝説的な人物開成(かいじょう)皇子の像がまつられている。
ほかにこのお寺にはこぶりな聖観音像が伝来するが、奈良国立博物館に寄託されている。常に展示されているわけでないので、博物館に問い合わせてからでかけるのがよい。
さらに知りたい時は…
『高槻の仏像』、高槻市立しろあと歴史館、2020年
『TV見仏記』4(DVD作品)、京都チャンネル、カルチュア・パブリッシャーズ、2004年