四天王寺の阿弥陀三尊像
宝物館は年3回の開館
住所
大阪市天王寺区四天王寺1-11-18
訪問日
2013年1月26日
拝観までの道
天王寺駅北口から北へ徒歩10分くらいで、南大門か西大門から四天王寺に入ることができる。
本来の正門は南大門だが、四天王寺は西方極楽浄土への入口であるという信仰が高まった関係で、境内西に立つ石鳥居(鎌倉時代のもの)と西大門(極楽門とも)をくぐって参拝に訪れる方が多いようだ。
天王寺駅よりもさらに近いのが地下鉄谷町線の四天王寺前夕陽ヶ丘駅で、下車後南へ数分で四天王寺の北西の門である乾門や中之門から入ることができる。
四天王寺の中心伽藍は境内の南側中央にあり、中門、塔、金堂、講堂が一直線に並ぶ形式は「四天王寺式伽藍配置」と呼ばれる。
宝物館は中心伽藍の東側にあり、近年、耐震などの改修工事を終え、2012年5月にリニューアルオープンした。以後、年間3回、テーマを決めて開館している。
1月1日から2月初旬まで開かれる「新春名宝展」では、国宝や重文指定の名品が公開されるので、この時期に行くのが一番良いと思われる。
3月中旬から5月初旬に開かれる「春季名宝展」では舞楽関係の展示品や曼荼羅を中心にした展示、また9月中旬から11月上旬に行われる「秋季名宝展」では、聖徳太子や浄土教美術関係を中心とする展示が行われるようだ。
拝観料
宝物館は一般500円。
金堂や塔のある中心伽藍は一般300円、無休。拝観入口は西側。
中心伽藍の北東にある本坊庭園は、入場一般300円。休園の日もあるので、お寺のホームページで確認して行くとよい。
四方から境内に入れる開放的な四天王寺の中で、この3ヶ所が有料のゾーンとなっている。
お寺や仏像のいわれなど
587年、崇仏、廃仏をめぐって蘇我、物部両氏が戦った際に、蘇我氏側について参戦した聖徳太子が戦勝を祈願してこの寺の造立を誓い、593年よりこの地で建設がはじめられたという。法隆寺とならんで聖徳太子にもっともゆかりのある寺院である。ただし、実際の着工や完成時期、また四天王寺という寺号がいつから用いられたのかなど、議論がある。
平安時代に入り、最澄が来訪、平安中期以後は四天王寺の別当職に延暦寺と園城寺の僧がつくなど、天台宗系の寺院となった。この地が極楽浄土の東門であるとする信仰も天台浄土思想によるもので、天皇家、摂関家から庶民に至るまで広く信仰を集るに至った。
一方、838年に落雷、960年には全山焼失など、四天王寺の歴史は度重なる災害とのたたかいでもあった。
現代に近いところでは、1801年の火災と1945年の戦災の被害は甚大で、ともに主要伽藍がことごとく焼失し、厳しい時代背景のもと、復興への道は極めて困難であった。そうした中でも、大阪の商人たちをはじめとする広い協力体制がつくられ、あたかも不死鳥のごとく再建がなされて現代に至っている。
四天王寺を訪れると、戦後に再建された中央の伽藍の周囲にもたくさんのお堂が建ち並んで、それぞれに手を合わせている人々の姿を見ることができる。
拝観の環境
宝物館は、筆者が訪れた新春の名宝展では、四天王寺伝来の絵画、彫刻、工芸作品40件余りが展示されていた。
仏像彫刻は、ガラスケース内で展示されている像と、ケースなしで展示されている像があるが、ともに近くよりよく拝観できた。
阿弥陀三尊像の印象
宝物館で拝観できた仏像中、特に印象深かったのは、阿弥陀三尊像である。
面長で、特徴的な顔つき、さらに螺髪がすべてとれてしまっているために、写真で見ていた時にはそれほど心動かされなかった像であったが、実物はほんとうにすばらしい。
中尊は像高約50センチの坐像。蓮肉までカヤの一木で彫りだしている。檀像風の仏像である。
上半身は高く、肩をうしろに引いて、両膝をしっかり前に出し、奥行きのあるどっしりとした座り方が魅力的である。衣はしっかりと脚部をくるみ、陰刻線を用いながら変化に富んだ襞(ひだ)をつくっている。腹部の襞は山をとがらせる。組んだ足の肉体感、小ぶりだがしっかりと刻んだ目鼻の力強さなど、強い印象を与える。
脇侍は60センチ弱の立像で、ヒノキの一木造、彩色像である。作風も中尊と異なり、あらわにした上半身ははちきれんばかりの肉体で、もともとの一具とは思えない。
中尊は来迎印、脇侍は、一方は蓮台(亡失)をささげ持ち、他方は合掌するという来迎の阿弥陀三尊であるが、平安前期にこの姿の像がすでにあったとも思えず、のちの改変が入っていると思われる。
さらに、中尊は本来は薬師如来像であった可能性も考えられる。816年に最澄が薬師院を設けたという記録があり、その像ではないかとする推測もある。一方、脇侍像は、片足を後ろに蹴上げ、腰を大きく捻る特異な姿から、供養菩薩のような仏像であったのではないかと考えられる。
その他の宝物館で拝観できた仏像について
この他、宝物館にて平安後期の千手観音・二天像箱仏、薬師如来像、阿弥陀如来像、毘沙門天像などを拝観することができた。
千手観音・二天像箱仏は、その名のとおり四角い箱の中に納められている。箱の大きさはわずか10センチ余りで、携帯用だったのだろう。千手観音像は坐像で、きわめて精緻につくられ、二天像はふたの裏についていて、開くと両脇侍のようになるが、おもしろいのは二天像が斜めについていることである。閉めた時に観音像と当たらないための工夫と思われる。
薬師、阿弥陀の二仏はともに半丈六の坐像で、和歌山・有田の明王院から移安されてきた像という。
薬師如来像は一木造で、古様さを見せ、魅力的な像である。平安時代中期ごろの作である。
顔は大きく、正面かやや斜め上の遠くをご覧になっているようである。眉がとても長く、頬はよく張って、ふくよかなお顔立ち。地髪と肉髻はなだらかに連続し、螺髪の粒は大きい。
肩幅は狭く、お腹を前に出し、膝は左右にとても大きく張り出している。
阿弥陀如来像は寄木造、平安時代後期の作である。近年修復された像とのこと。
額を広くとり、どことなく異国的な顔立ちとなっている。肩幅を大きくとり、広い胸、それを受ける脚部は左右に大きく張り、安定感を出している。
毘沙門天像は像高100センチほどの立像で、素朴さを感じる一木造の像。高知の恵日寺から移されてきたのだそうだ。
冒頭でも述べたが、展示は会期ごとにかわるので、問い合わせてから出かける方がよいかもしれない。
その他
北西の門である中之門から入って右手に、石仏が集められている「地蔵山」と呼ばれる一角があり、その中に鎌倉時代後期の1317年(正和6年)の年紀のある地蔵菩薩立像石仏(通称、融通地蔵)が立つ(ただし銘は肉眼では読み取りにくい)。宝珠と錫杖を持つ姿で、肉厚に彫られ、顔は丸まるとして存在感がある。もと、四天王寺の西、300メートルほどのところにあった像とのこと。
中心伽藍の北側にある六時礼讃堂(ろくじらいさんどう、六時堂、日に6回往生を願い礼拝を行っているのでこの名がある)は、大阪空襲の焼失を免れた貴重な江戸時代の建物である。
このお寺に伝わる古代の金銅造の菩薩半跏像(金堂本尊の救世観音像の試作としてつくられた「試みの観音」との伝承がある)が8月9、10日の「千日詣り」の際に、この六時堂で開扉されるそうだ(時間は要確認)。
(追記)
筆者は2017年8月9日の午後7時ごろ六時堂を訪れた。このお堂は本来薬師如来像が主尊であるが、確かに観音菩薩像が移されて、まつられていた。途切れなく祈祷を願う方が訪れ、その方々は堂内に入れるが、一般は堂外からの参拝となる。
像高はわずか20センチほどの像であり、遠目では細部までは残念ながらよくわからなかった。
さらに知りたい時は…
『仏像の姿』(展覧会図録)、三井記念美術館、2018年
『木×仏像』(展覧会図録)、大阪市立美術館ほか、2017年
『四天王寺』(『週刊古寺を巡る』25)、小学館、2007年7月
『聖徳太子信仰の美術』、東方出版、1996年
『四天王寺の宝物と聖徳太子信仰』(展覧会図録)、同展実行委員会、1992年
『四天王寺』(『古寺巡礼 西国』3)、宮本輝、淡交社、1981年