保寧寺の阿弥陀三尊像

  慶派一門の実力派、宗慶作の三尊

住所

加須市日出安1286

 

 

訪問日 

2008年3月9日

 

 

この仏像の姿は(外部リンク) 

保寧寺ホームページ・宝物のご紹介

 

 

 

拝観までの道

保寧寺は埼玉県北東部、加須(かぞ)市にある禅寺である。

交通は、東武伊勢崎線の加須駅北口から鴻巣行き朝日バスに乗車して10分弱、「日出安」バス停で下車、西へ徒歩約10分。バスの本数は1時間に1〜2本。

 

朝日バス

 

北口にはタクシー乗り場があり、タクシーを使うと1,000円くらいである。

駅の南口から歩くと40分くらい。

 

阿弥陀三尊像は本堂裏の阿弥陀堂(収蔵庫)に安置されている。

 

 

拝観料

志納

 

 

仏像のいわれ

お寺の開創は鎌倉時代末期と伝える。

阿弥陀三尊像は鎌倉時代前期の作で、もとはどこの寺に安置されていたのか、どのような事情でこの寺に移されたのか等は不明である。お寺の文書や阿弥陀像内の修理銘から、少なくとも江戸時代前期にはこの寺にあったことはわかっている。

 

 

拝観の環境

阿弥陀堂は正面にガラスがはまり、自由に拝観できる。ただし、遠いし、ガラス越しなので、十分に拝観することは難しい。

法事等なければ扉を開けて中に入れていただけるので、お電話で確認して行くことが望ましい。照明もあり、とてもよく拝観ができる。ただし正面からのみの拝観である。

 

 

仏像の印象

ヒノキの割矧ぎ(わりはぎ)造。中尊は像高約90センチとほぼ等身大の坐像で、脇侍の菩薩像は像高1メートルほどの立像である。

中尊は、光背、台座のほか裳先などに後補部分があるが、保存状態は全体によい。全身をおおう漆箔も後補である。脇侍は台座、光背、表面の着色のほか、足先や天衣の垂下部分なども後補。両腕も後補の可能性があるという。

 

中尊は顔や上半身に張りがあり、若々しく頼りがいのある印象である。目は玉眼。膝の張りや襞(ひだ)のうねりは自然で、上半身との調和がよくとれている。

写真で見ると、体が後ろにかなりそ反っているのだが、前からは不自然さが感じられない。むしろ、それによって正面からもやや下から仰ぎ見ても、堂々と感じさせる効果となっているようである。

脇侍像は中尊に比べてややぎこちない印象である。

 

 

銘文からわかること

像内に短い銘文がある。それによると、鎌倉初期の1196年に大仏師宗慶(しゅうけい、そうけい)によってつくられたことがわかる。ほかに中心となった僧良雅と施主として平氏の女(むすめ)、藤原弘□(1文字不明、赤外線カメラで撮ると糸へんの字であるらしいとわかる)、そして小仏師として定助、藤原国義の名前がある。そのうち、良雅、平氏の女、2人の小仏師については不詳。

 

宗慶は、康慶(運慶の父)作の地蔵菩薩像(1177年、静岡県富士市の瑞林寺蔵)の像内銘に小仏師の一人として名を連ね、また1183年に運慶が行った法華経写経(「運慶願経」)にも名前が見える慶派の中堅仏師である。おそらく康慶の弟子で、康慶や運慶を助けて働くことが多かったのであろう。彼が中心となった仏像としては、この保寧寺の像しか知られていない。

銘文は、「仏師宗慶」と書いた肩に同筆で「大」という文字を加えている。「仏師宗慶」と書いた後で、「おっと、今回は自分が大仏師だった」と思い直して「大」の字を書き加えたのかもしれないなどと想像するとなんだか微笑ましく思える。

 

施主として名前が見える藤原弘□については、次のように推測されている。

鎌倉時代初期には、頼朝が奈良仏師の正系である成朝(せいちょう、じょうちょう)を鎌倉に招き勝長寿院の仏像をつくらせ(現存せず)、北条時政や和田義盛といった有力御家人は運慶に造仏を依頼した(願成就院浄楽寺)。このほか、伊豆には慶派の実力派仏師である実慶作の仏像も残されている(修禅寺、桑原薬師堂)。

このように、慶派仏師の仏像を本尊とするお寺をつくることが鎌倉武士のブームとなったという時代背景を考えるならば、この保寧寺の阿弥陀三尊像の施主である藤原弘□もやはり御家人である可能性がある。

この埼玉県北東部にもさまざまな武士団が活動していたことが知られているが、その中に藤原氏の後裔と称していた児玉党という武士団があった。12世紀末から13世紀にかけて活躍した児玉党出身の武士で、現在の埼玉県本庄市四方田を根拠地とし、『吾妻鏡』にも登場するに四方田弘綱は、この像の施主である藤原弘□にあたる可能性がある。

 

 

その他

保寧寺の境内からは布目がついた瓦が見つかっている。同じような瓦は頼朝が鎌倉に創建した永福寺(ようふくじ)の跡から多く見つかり、さらに東日本の有力御家人の屋敷や菩提寺跡と思われる場所からも発見されている。このことから、保寧寺が創建される以前には鎌倉御家人の屋敷だったのではないかと考えられている。

 

 

さらに知りたい時は…

『文化財よ、永遠に』(展覧会図録)、住友財団・東京国立博物館、2019年

『運慶 鎌倉幕府と霊験伝説』(展覧会図録)、神奈川県立金沢文庫、2018年

「仏師と仏像を訪ねて1 宗慶」(『本郷』134)、山本勉、2018年3月

『関東の仏像』、副島弘道編、大正大学出版会、2012年

『日本彫刻史基礎資料集成 造像銘記篇 鎌倉時代』1、中央公論美術出版、2003年

「新指定の文化財』(『月刊文化財』464)、文化庁文化財保護部、2002年6月

『運慶 その人と芸術』 、副島弘道、吉川弘文館、2000年

「研究資料 保寧寺阿弥陀三尊像と仏師宗慶」(『国華』1102、1103)、副島弘道、1987年

 

 

仏像探訪記/埼玉県