道成寺本堂の千手観音像
鞘仏から発見された仏像
住所
日高川町鐘巻1738
訪問日
2009年5月16日
拝観までの道
紀勢本線道成寺駅下車、北に7分ほどのところにある。
仁王門を入ると正面が中世に再建された本堂、向って右に江戸時代再建の三重塔、左の方に宝仏殿(大宝殿)という宝物館がたつ。
拝観料
本堂など境内の拝観は無料(宝仏殿は600円)。
お寺や仏像のいわれ
能、歌舞伎舞踊で有名な道成寺は、寺伝によれば8世紀初頭、文武天皇の勅願により紀道成という人物によって開かれ、これによって道成寺と名付けられたとされる。開基は義淵僧正という。
この伝は、14世紀に造られた鐘の銘文(ただしこの鐘は秀吉によって戦利品として持ち去られ、現在は京都市左京区の妙満寺にある。拝観できるそうだ)と、寺に伝わる「道成寺縁起絵巻」に述べられるところであって、実際の創建の事情は明らかでない。
しかし、この寺には奈良時代の仏像が伝わっていること、境内からその時期の瓦も発見されていることから、8世紀、奈良時代に創建されたことは確かであるようだ。
なお、発掘調査によれば当初は法隆寺式にも似た伽藍配置であったらしい。すなわち現在の仁王門の位置に中門があり、そこから回廊がのびて、現在の本堂の位置にあった講堂についていた。そしてその間の空間に、現在の三重塔の位置に塔が、その西側に金堂が東面して建っていたようである。
この寺には3躰の千手観音像が伝わっている。
まず、このお寺の本尊の千手観音像。平安前期の作で、最近まで本堂の中央に立っていたが、現在は宝仏殿に移されている。国宝指定の仏像である。
次は本堂北向きの厨子に納められている秘仏の千手観音像。本尊と背中合わせの位置におかれたこの像は、南北朝時代ごろの作で、ヒノキの寄木造。像高約3メートルの立像である。
「北向観音」「後立本尊」とよばれて信仰を集め、江戸後期にはこの像を拝むために本堂後側を拡張までしている。写真でみる限り、南北朝時代の仏像らしいややのっぺりした印象の像である。室町期と江戸期に修理されているようだが、全体に保存状態はよいという。
さて、第3の千手観音像だが、秘仏の北向観音の像内から近年発見された像である。
1980年代の後半から1990年代のはじめにかけて本堂の解体修理が行われたが、それにともなって北向観音を動かしたところ、偶然背面のあて木がはずれ、中にもう1躰の仏像が納められていることがわかった。といっても小さな像ではない。像高2メートル半近い立像である。北向観音が約3メートルの大きさなので、ほとんど入れ子のようで、北向観音の首の部分に中の観音像の髻がおさまるという状態だったそうだ。以後、北向観音像は鞘仏ともとよばれている。
中の千手観音像は破損がかなり進んでいて、腕はすべてとれ、隙間につっこんであったが、入りきれないものは別に箱に入れて伝わっていたという。
木心乾漆像で、奈良時代の作と考えられている。
拝観の環境
この鞘仏内より発見された千手観音像は、修復の上で本堂中央に安置されている。
本堂内はライトもあり暗くはないが、扉口からの拝観となるのでやや距離がある。
仏像の印象
本体はクスでつくり、条帛や脇手などはヒノキ製。
すらりとほぼ直立する姿は威厳がある。他の多くの千手観音像と異なって、前で合掌する手と脇手は太さがあまり変わらず、また脇手はあまりバランスよく配置されずに直接肩から出ているようにつけられている。定型化した千手像ができあがる前の像である。
下半身の裳は、お供え物でよくわからないが、写真でみるとゆるゆると襞(ひだ)をつくり、天平の乾漆像の息吹が伝わってくる。
顔は破損が進んでいて、残念ながら後補。しかし全体的な雰囲気として、いかにも霊験あらたかな像という感じである。
この像は奈良時代の作であるので、道成寺創建時の本尊である可能性がある。
その他(本堂の特別公開)
ここ数年、春と秋に本堂内公開が行われている。
春は桜の時期(3月下旬から4月上旬)、秋は10、11月の2ヶ月間。本尊を間近に拝観できるが、「北向観音」は厨子中にあり、拝観できないとのこと。
さらに知りたい時は…
「特集 よみがえれ、仏像!」(『芸術新潮』2015年5月号)
『古寺巡礼 道成寺の仏たちと「縁起絵巻」』、伊東史朗、東京美術、2014年
『祈りの道 吉野・熊野・高野の名宝』(展覧会図録)、大阪市立美術館、2004年
『地方仏を歩く』1、丸山尚一、日本放送出版協会、2004年
『週刊 古寺をゆく』26、小学館、2001年8月
『週刊朝日百科 日本の国宝』039、朝日新聞社、1997年11月
『田辺町史2 通史編』下、田辺町史編さん委員会、1991年
「道成寺本堂」(『仏教芸術』195)、鳴海祥博・菅原正明、田村寛康、1991年3月