道成寺宝仏殿の千手観音像
44臂、堂々たる千手観音立像
住所
日高川町鐘巻1738
訪問日
2009年5月16日
この仏像の姿(外部リンク)
拝観までの道
紀勢本線道成寺駅下車、北に7分ほどのところにある。
仁王門を入ると正面が中世に再建された本堂、向って右に江戸時代再建の三重塔、左の方に宝仏殿(大宝殿)という宝物館がたつ。
宝仏殿は無休。
拝観料
600円
お寺のいわれなど
道成寺の創建は701年、文武天皇の勅願によると伝える。
境内からは8世紀から10世紀にかけての瓦が出土していて、平安前期時代まで活発な造堂、造仏が行われていたようだ。
宝仏殿では、本尊の千手観音像をはじめ、四天王像、毘沙門天像、十一面観音像といった平安前期時代の仏像を拝観できる。
拝観の環境
照明は抑え気味だが、そばまで寄ってよく拝観することができる。
仏像の印象
本尊の千手観音像は像高は3メートル近い立像で、2菩薩を脇侍として従える。
すらりと直立し、左右対称の意識が強い。上半身はがっしりして、腰はしっかりくびれ、下半身は長く、全体に非常に均整がとれている。
顔は目鼻だちがくっきりして、強い印象を与える。
脇手は正面で合掌する手に比べてそれほど細くはない。すらりと長い本体と比較的太い脇手の関係も大変バランスがとれている。なお、腕は44本あり、通行の千手観音像が42本の手であらわされるのに対して、2本多いのが不思議である。手の中には後補のものも含まれているので、あるいは当初は42本だったのかもしれないが、那智の補陀洛山寺の千手像も44臂であり、紀伊路の千手観音特有の形態であった可能性もある。
肩から下がる天衣の流れや折り返された裙の上端の複雑な線、股間の渦の文、膝前の2段の天衣のうちの下段のねじれなど、全体に衣の襞(ひだ)は賑やかだが、煩雑に過ぎず、気品を保っている。
基本的に一木造だが、変形ともいえる木寄せをしているという。
脇侍の2菩薩は、日光・月光菩薩と伝えられ、手には日輪・月輪を持つ。しかし持物は後補であり、当初から日光・月光菩薩としてつくられたかどうかはわからない。像高約240センチの堂々たる立像である。
日光菩薩像と月光菩薩像は、手の形が対称であるほかはほとんど同じ姿である。しかし、つぶさに見ると顔も体も日光像はすらりとして、月光像はやや太めである。構造も日光像は内ぐりもなく古様だが、月光像は背中からのくりがあるという。こうしたことから、中尊と日光菩薩像がほぼ同時期で、月光菩薩がやや遅れて日光菩薩像をモデルに制作されたとも考えられる。当初は三尊ではなかったものの、月光菩薩を補った時点で三尊像としてまつったとの推測も可能である。
なお、千手観音の脇侍に日光・月光菩薩がつくというのは異例であるが、千手観音像に関する基本的な経典には、日光月光の両菩薩が千手観音を助けるはたらきをするということが書かれているそうで、それに基づいた三尊形式である可能性はある。
その他
道成寺といえば、安珍・清姫の伝説が著名である。
熊野詣での僧安珍への思いから清姫は大蛇となって日高川を渡り、道成寺の鐘搗き堂に隠れた安珍を鐘もろとも焼き殺してしまう。
能や歌舞伎の「道成寺もの」はその後日談で、2代めの鐘を建立して鐘供養を行うことになった道成寺を舞台に、成仏できない清姫の霊が現れて鐘を焼き尽くす。
面白いことに、実際にも道成寺には鐘楼がない。古代の梵鐘はいつのころか失われ、中世につくられた2代めの鐘も秀吉軍が戦利品として持ち去ってしまったためである。
しかし、この2代めの鐘は京都の妙満寺に現存し、その銘文に名前のある吉田頼秀、逸見万寿丸といった在地領主が南北朝時代の道成寺を支えたことが知られる。彼らは南朝方に属して、一時は相当の勢力であったようで、鐘の再興のほか、本堂の再建、また本堂北側の秘仏千手観音像や現在は宝仏殿に安置されている大きな釈迦三尊像の造立もその頃と考えられている。
さらに知りたい時は…
『古寺巡礼 道成寺の仏たちと「縁起絵巻」』、伊東史朗、東京美術、2014年
『地方仏を歩く』1、丸山尚一、日本放送出版協会、2004年
『週刊古寺をゆく』26、小学館、2001年8月
『週刊朝日百科 日本の国宝』039、朝日新聞社、1997年11月
「新指定の文化財」(『月刊文化財』370)、文化庁文化財保護部、1994年7月
『田辺町史2 通史編』下、田辺町史編さん委員会、1991年
『紀伊路の仏像』(『日本の美術』225)、松島健、至文堂、1985年2月
「道成寺の仏像」(『仏教芸術』142)、松島健、1982年5月
『和歌山県の文化財 』3、清文堂出版、1982年