地蔵峰寺と善福院の仏像
峠のお地蔵さんと国宝釈迦堂のご本尊
住所
海南市下津町橘本(地蔵峰寺)
海南市下津町梅田271(善福院)
訪問日
2012年12月2日
この仏像(地蔵峰寺)の姿は(外部リンク)
地蔵峰寺への道
地蔵峰寺(地蔵峯寺、じぞうぶじ)は、海岸沿いから急激に立ち上がった急峻な高地にあるお寺。
近い駅はJR紀勢本線の海南、冷水浦(しみずうら)、加茂郷(かもごう)のいずれかとなる。
お寺への1番の早道は、加茂郷駅からタクシーを使う方法。タクシーは駅前にほぼ常駐しており、料金は1,800円前後。
バスは、海南市コミュニティバス仁義線で、加茂郷駅から乗車し、「橘本(きつもと)」で下車、そこから北へと登って行く。バスの本数は少なく、また日曜日は運休となる。
駅から徒歩でということであれば、冷水浦駅が最寄りである。この駅と地蔵峰寺の間は直線距離で1キロもなく、舗装されていない急坂の山道が通っている。しかし、この道はパソコン上の地図では表示されず、また私も歩いていないので、おすすめできるルートかどうかわからない。少なくとも雨天時などは避けた方がよいのではないかと思う。
加茂郷駅から歩く場合は、東へ約4キロ半、1時間半位と考えておくとよいと思う。海南駅からは南へ、1時間〜1時間半くらいの道のりと思う。
*地蔵峰寺は、熊野古道にあるお寺である。海南駅から熊野古道を歩いて地蔵峰寺へと向うルートについては後述。
このお寺はかつては隆盛だったというが、今は本堂のみとなっていて、地元の方が管理をしている。みかんの農家をされているので、拝観できる日時についてあらかじめ問い合わせて出かける必要がある。志納。
お寺や仏像のいわれなど
地蔵峰寺は、「峠のお地蔵さん」と呼ばれ、標高は300メートル弱だが、そこへ至る道は厳しい。難所にあって、旅人を守り続けた仏さまである。
かつては西大寺流律宗のお寺だったようだが、現在は天台宗。
本堂の中央に石造の地蔵菩薩像が安置される。
お堂は寄棟造、本瓦葺、3間の建物。室町時代中期頃のもの。地蔵菩薩像は、銘記によって鎌倉末の像とわかるので、お堂の方が新しい。どうやら、ごく簡単な覆い屋で保護していただけだったものを、のちになってその上にお堂をつくったということらしい。このお堂は江戸時代に数度にわたって修理されていて、当初の姿を改変したところも多かったそうだが、1978年に修復され、面目を一新した。
像高は約1メートル半、半丈六の坐像である。光背まで含めて丸彫りされていて、石材は砂岩。この山のものでないとのことで、下から運ばれてここに据えられたのであろう。よくそのようなことができたものと驚かされるが、宗教的拠点として大きな役割を持つこの場所になんとしても安置したいという強い思いがあって、ここに安置されたのだろう。
拝観の環境
お堂の入口から覗けるようになっているが、やはり堂内で拝観させていただくとよい。事前予約必要。ライトもあり、側面や背面もよく拝観させていただける。
仏像の印象
本像の印象は、肉厚であること、やわらかな肉づきであること、単純な曲線と曲面による平易で明るい造形であることである。
顔つきは、あまり細かな抑揚をつけず、大づかみに、単純につくられていて、それがかえって印象を強めている。鼻が大きく、鼻と口が接近し、その間の人中は盛り上がって、アクセントになっている。生え際も単純な線であらわしている。
手先や足先は実に肉づきよく、衣の線も滑らかで美しい。
一方、胸の厚みや膝の張りはそれほどでなく、誇張を避けて、自然な造形となっている。
おおぶりな宝珠と錫杖をもつ。錫杖は本体と同材、また光背も同材から彫りだされている。
光背には3躰の化仏がつく。左右に合掌する地蔵菩薩、頂上には如来坐像。この如来像は手を衣の下に隠す。
光背はぶあつく、背後に銘記がある。銘記は大きな字で書かれで、読みやすい。それによれば、鎌倉時代末期の1323年に、新義真言宗の勧進僧心静(しんじょう)が、行経につくらせたとわかる。
行経は、奈良市南田原の阿弥陀如来石仏を1331年につくった「伊行恒」と同一人物と考えられ、鎌倉時代を代表する石大工の伊派の一人である。
台座は、いくつかの石材を寄せてつくられている。
仏像に向って左手前にライトがあり、つけていただいた。すると、目玉が描かれているのが見え、また、全体の感じもかわって、いっそう興味深かった。
熊野古道と地蔵峰寺
熊野古道の中で、紀伊半島の西部を南下して熊野方面へと向う道を紀伊路(紀路)という。
紀伊路は大阪府下よりはじまっているが、地蔵峰寺に近いJR海南駅からのルートを以下に紹介しておく。
海南駅から南へ20分くらい歩くと、藤白(ふじしろ)神社に着く。その境内には、藤代王子の旧跡がある。熊野への道々に神々をまつった熊野九十九王子の中でも、特に格が高いとされた神さまであったそうだ。
その先、いよいよ藤白坂の厳しい上りがはじまる。かつてこの道を行った藤原定家が「よじ上った」と表現したほどの難所である。途中、7世紀に謀反の疑いで処刑された有間皇子(ありまのみこ)の墓や、江戸時代に1丁ごとに置かれた石の地蔵尊(丁石地蔵)が見られる。
上りきった峠にあるのが地蔵峰寺である。藤白神社からここまで、2キロ弱、約45分くらいだそうだ。
地蔵峰寺の境内にも、かつては熊野の神さまがまつれていた。藤白塔下(とうげ)王子跡という碑が立っている。
そこから次の橘本王子跡まで、蜜柑畑の中の下り坂となる。つづら折れになっている舗装道路と交わるようにして、旧道がついている。橘本王子跡は、阿弥陀寺というお寺にあり、そこはバス停の「橘本」のそばである。なお、橘本の地名は、記紀の神話に登場するタヂマモリが、常世の国から持ち帰った橘の実を最初に植えたところであるからという。
善福院への道
善福院(ぜんぷくいん)は、紀勢本線加茂郷駅の東、徒歩30分くらいのところにある。
筆者は、地蔵峰寺拝観のあと、善福院を訪ねた。地蔵峰寺から南側の県道への下りは、みかん畑の中の道で、ほんとうに気持ちがよい。県道に出るまでが30分強。県道166号を西へ30分くらい行くと、善福院を示す案内が出てくるので、そこからさらに北東方向へ10分くらい。
釈迦堂内拝観は事前連絡が必要。拝観料は200円。
善福院の由来など
善福院は天台宗。地蔵峰寺の本寺である。
創建の事情は不明。鎌倉時代に禅宗寺院として創建されたと考えられているが、あるいは前身の寺院があったのかもしれない。当時は広福禅寺といい、いくつかの子院をもつ大きな寺院であった。善福院はもともと広福禅寺の子院のひとつだった。
室町時代にはこの地域の有力武将であった加茂氏の菩提寺として栄えたというが、時代が変わり秀吉による一統がなると、高野山の末として真言宗に、さらに江戸時代には紀州藩の意向によって天台宗に転じた。近代には、寺は子院であった善福院が管理するところとなり、寺名も善福院に統一された。
善福院釈迦堂は、広福禅寺のもと本堂である。山口県の功山寺仏殿とともに鎌倉時代にさかのぼることができる禅宗様建築の貴重な遺構として、国宝に指定されている。
善福院の釈迦如来蔵について
本尊の釈迦如来像は、内陣の厨子中に安置され、厨子の影になる部分もあって全身を拝見するのは難しいが、お堂には外の光も入り、像の印象をつかむことができる。
像高約1.5メートルの半丈六坐像。寄木造、彫眼。
螺髪の粒は大きめで、目はつり上がり、顔はややこわばったように感じられる。上半身は高く、逆に膝は低い。独特の雰囲気の仏像で、平安時代後期の地方色のある作と思われる。しかしそうなるとお堂よりも古いということになり、禅宗寺院になる以前の前身寺院からの本尊であったのかもしれない。
像内に鎌倉時代末期の修理銘が残る。
本尊に向って右奥に厨子が置かれ、中に僧形坐像が安置されている。中世の写実的な肖像であるが、誰の像であるのかは不明。お寺では臨済宗を伝えた栄西の像として伝来したという。
さらに知りたい時は…
『供養をかたちに 歴史的石造物を訪ねて』、山川均、石文社、2014年
『ふるさとの仏像をみる』、内田和浩、世界文化社、2007年
『和歌山県史 原始・古代』、和歌山県史編さん委員会、1994年
『紀伊路の仏像』(『日本の美術』225)、松島健、至文堂、1985年
『和歌山県の文化財』2、安藤精一編、清文堂出版、1981年