龍角寺の薬師如来像
東国の白鳳仏
住所
栄町龍角寺239
訪問日
2010年8月12日
この仏像の姿は(外部リンク)
拝観までの道
龍角寺(竜角寺)へは、JR成田線の安食(あじき)駅前から栄町循環バス安食ルートで「龍角寺入口」下車、北へすぐ。ただしこのバスは本数が少なく、また日・祝日は休み。
または、安食駅から千葉交通バス竜角寺台車庫行き(バスの便数はおおむね1時間に1本)に乗車し、「風土記の丘北口」で下車。小さい道しるべが立っているので、それに従って遊歩道を行くと、10分くらいで着く。
住職が他寺と兼務のため、拝観は事前に栄町役場(0476−95−1111)の産業課に電話で申し込む。拝観希望日をいくつかあげてお願いするとよい。
拝観料
特に拝観料の設定はなかった。
お寺のいわれ
709年に竜女が現れて仏をまつったことにはじまり、730年(奈良時代前期)に創建されたとする。また、当初は龍閣寺と称したが、自分の身にかえて慈雨をもたらした龍の頭がこの地に落ちたことから龍角寺と改めたと伝える。
しかし、この寺の本尊の銅造・薬師如来坐像頭部は奈良時代以前のものであり、境内に残る古代の堂塔の配置も斑鳩の法起寺のように塔と金堂が東西に並ぶ古い形式で、古瓦の文様も奈良時代以前創建の飛鳥の山田寺のものに近い。こうしたことから、この寺の歴史は伝承よりもさらにさかのぼることは確実である。関東地方でも屈指の古寺といえる。
この地域にはたくさんの古墳が残されている。その中には終末期の古墳として全国有数の規模のものが含まれ、相当な勢力の豪族がこの地にあったことが知られる。おそらくその豪族がいち早く中央から仏教を取り入れて龍角寺を建立したのであろう。その豪族だが、平城京の跡から発見された木簡の研究から、大生(おおみぶべ)という氏族ではないかという見解が出されている。
他の古寺と同様、龍角寺もまた衰退と再興を繰り返した。金沢文庫所蔵の史料の中に「下総龍角寺談義処」とあり、中世には龍角寺は仏教学のセンターのような機能をもっていたとわかる。江戸時代には20石の寺領をもち、17世紀末には火災にあうが、まもなく立ち直った。しかし近代以後は寺運傾き、20世紀なかばには江戸期再建の本堂が老朽化のために取り壊された。
拝観の環境
本尊・薬師如来像は奉安殿(収蔵庫)に安置される。その前に「拝殿」が接続して建てられていて、そこからの拝観になる。
本尊までは距離もあり、厨子中に安置されているので頭頂部は陰になって見えないなど若干見えにくいが、照明もあってまずまずよく拝観できる。
仏像の印象
本尊の薬師如来像は像高約90センチ。銅造。
江戸時代前期の火災によって胴体部が失われ、首は奈良時代以前すなわち白鳳期の作だが、体部は江戸時代の補作である。顔はやや小さく見え、また表面の肌合いも異なっているが、それほどの違和感はなく、うまく体を補っている。
顔は穏やかに微笑を浮かべる。目は切れ長、鼻はやや小ぶりだがくっきりとして、口許はやわらかな感じである。
古代の金銅仏の魅力が堪能できる。
その他
バス停「風土記の丘北口」から南へ数分歩くと、房総風土記の丘資料館がある。ここに龍角寺薬師像頭部、深大寺釈迦如来像、興福寺仏頭(旧山田寺)のレプリカが展示されている。ほぼ同時代とされる3像だが、印象がかなり異なっていて、比較しながら見ることができる。
さらに知りたい時は…
『下総 龍角寺』(展覧会図録)、早稲田大学會津八一記念博物館、2022年
『生身と霊験 宗教的意味を踏まえた仏像の基礎的調査研究』(『東国乃仏像』三)、有賀祥隆ほか、2014年
『仏像半島』(展覧会図録)、千葉市美術館、2013年
『龍女建立ー龍角寺古墳群と龍角寺』(展覧会図録)、千葉県立房総のむら、2009年
『古代東国史の基礎的研究』、川尻秋生、塙書房、2003年
『日曜関東古寺めぐり』、久野健ほか、新潮社、1993年
「龍角寺銅造薬師如来像について」(『仏教芸術』135)、松山鉄夫、1981年3月