宝珠院の十一面観音像
12年に2度、丑年と午年の春にご開帳
住所
南房総市府中687
訪問日
2014年3月29日
この仏像の姿は(外部リンク)
拝観までの道
宝珠院(ほうじゅいん)は館山市との境に近い南房総市府中というところにある。
館山駅から北東に4キロくらいの道のり。駅の東口、西口両方にレンタサイクルを扱う窓口がある。基本的に平坦地で、快適。こぐスピードにもよると思うが、筆者の場合、20~25分くらいで着いた。
バスの場合は、館山駅から館山日東バス丸線、平群線で「横峰」下車、南へ徒歩15分〜20分。
このお寺は安房国(千葉県南部)の観音霊場である安房国札観音34か所めぐりの第23番札所となっている。普段は無住で、第3番札所の崖観音(大福寺)の管理となっているとのこと。
安房国の札所霊場は12年に2度、丑年と午年に総開帳が行われる。宝珠院観音堂の本尊の十一面観音像もその期間であれば拝観ができる。丑年が本開帳、午年が中開帳だそうだ。
2014年および前回の2009年の開帳は、3月10日より4月10日までの約1ヶ月間であった。
拝観料
志納
お寺や仏像のいわれなど
真言宗寺院で、創建は15世紀初頭という。一時は安房国の真言宗寺院の中でも高い地位にあり、里見氏、ついで徳川氏から保護を受け、おおいに栄えたという。
20世紀前半の関東大震災では大きな打撃を受け、現在の観音堂はこの時に倒壊した仁王門の2階部分を利用して再建された建物だそうだ。境内に入って左手に建つ。
拝観の環境
十一面観音像は観音堂の奥の厨子中に安置されている。お前立ち像が脇に移動となって、扉が開かれていた。像高が2メートル以上あるとても堂々とした像で、お堂はこじんまりしているお堂なので、お堂の入口からもよく見えるが、なにぶん大きい像なので、下肢は見えない。
係の方に断って入堂させていただき、近くよりじっくりと拝観させていただくことができた。
仏像の印象
カヤの一木造で、背刳りをして背板でふさいでいる。1984年の修理で背板裏面に墨書があるのが発見され、それにより鎌倉時代後期の1308年に仏師定戒によってつくられたことが明らかになった。
銘文にはまた「奉古仏建立」とあり、古仏を模した、あるいは古くより伝わる仏像の再興像としてつくられたといった意味ではないかと推測できる。
これだけの大きな像を、当時もう当たり前になっていた寄木造の技法をとらずにつくったのは、古像を意識してのことなのであろう。像は赤みを帯びて美しく、カヤの良材を得て、古代の檀像彫刻を意識しつつ彫ったものであろうか。
なお、もとは宝珠院の子院の西光院(廃絶)の本尊であったと伝える。
体の幅に比べて顔が大きく見えるが、幅や奥行きがそれほどでないのは、材の制約があったからなのかもしれない。
目はそれほど切れ長とせず、やや釣り上がり気味である。額を大きくとる。鼻はあまり大きく、長くはなく、それが親しみを感じさせる。鼻の穴をあらわす。
口はやや正中線を外しているようである。天冠台やその下の髪の束、また衣の線や肉体の表現は素朴さを感じさせる。
那古寺(館山市)の仏像について
宝珠院のあと、那古寺(那古観音)を拝観した。西に4キロメートルくらいで、自転車では20分くらいで着いた。
館山駅からは真北に3キロくらい。駅から徒歩で行く場合は、館山から北側にひとつめの那古船形駅下車、徒歩10分~15分。
この那古寺は安房国札34ヶ所の1番の霊場であるだけでなく、坂東三十三観音霊場の第33番めの札所でもある。
このお寺には13世紀前半の金銅製の千手観音像が伝来している。かつて房総半島で大きな勢力を誇っていた千葉氏による造像の仏像として大変貴重なもの。像高1メートルほどの洗練された造形がきわだつ。
観音堂の内陣、向かって左側の奥にガラスケースに入って安置されている。本像は安房国札観音の開帳時期でなくとも拝観が可能であるが、それほど大きな像でなく、また拝観の位置からは遠いので、残念ながら細部までよく見るのは難しい。
仁王門を入ってすぐ右側の阿弥陀堂の本尊、阿弥陀如来像も鎌倉時代前期の作と考えられている。半丈六の坐像で、鎌倉時代末と江戸時代の修理銘があるそうだ。
この像は東日本大震災で損傷し、それ以前からの傷みも進んでいたこともあって、東京藝術大学の保存修復彫刻研究室で修復が行われた。筆者が訪れたのはちょうどその修復中で、2014年の5月ごろにはお堂に戻ってくる予定とのことだった。
さらに知りたい時は…
『三芳村の文化財』、三芳村教育委員会、2005年
『宝珠院歴史資料目録』、三芳村教育委員会、1997年