報恩寺の阿弥陀如来像
慶派のみごとな造形
住所
長南町報恩寺252
訪問日
2009年10月24日
この仏像の姿は(外部リンク)
拝観までの道
長南町は千葉県のほぼ中央にある。市原市の牛久駅(小湊鉄道線)か茂原駅(外房線)からバスの便が出ている。
報恩寺に一番近いバス停は、茂原駅からの長南行き(給田経由)都バスの「中之台」で、下車後北東へ徒歩10分くらい。ただしバスの本数は少ない。
牛久、茂原間の小湊バスでは、「長南営業所」で下車し、東南に徒歩約25分。ただし日曜日はバスの本数が少なくなる。
→ 小湊バス
* 都(みやこ)バスの時刻の問い合わせは、同社茂原営業所へ(0475-25-0234)
拝観には事前連絡が必要。
拝観料
志納
お寺のいわれ
創建は平安前期と伝えるが、不詳。現在は高台にたつが、かつてはその下の低地にあったとそうだ。現在地に移ったのは江戸時代中期という。
1884年8月の暴風雨によって、本堂はじめ諸堂は壊滅的な打撃を受けた。現本堂は1903年の再建である。
拝観の環境
本尊の阿弥陀如来像は本堂正面に安置され、ライトもあってよく拝観できる。
仏像の印象
像高は90センチ弱の坐像で、ヒノキの寄木造、玉眼。来迎印を結ぶ。
とにかく落ち着いた作風である。無理な誇張がなく、安定感がある。肉髻は低く、顔は張りのある丸顔、螺髪は小粒で美しく整えられ、髪際はわずかにカーブして中央部が下がる。胸は堂々と広く、腰はくびれる。
衣は自然に流れ、両膝の間、足の輪郭にそった起伏を表現していて、見ていて心地よいほどである。襞(ひだ)は比較的賑やかで、なかなかに深く刻む。
全体に調和がとれていてかつ存在感があり、メリハリをつけつつ自然な表現が行き届いている。すばらしい仏像と思う。
かつて撮られた写真をみると、この仏像は長年の劣化のためにかなり傷んでいた。1959年及びその翌年に調査と修理が行われ、像の構造が知られた。体幹部は4材を合わせて造られ、肉厚に残しながら、丁寧に内ぐりをほどこしている。
像底はいわゆる上げ底式である。像の下面はないが、かといって開いてもいない。膝のあたりに棚のように木をくり残すというもので、運慶およびその系譜を引く仏師の像によくみられるものである。
像底よりくりを行った部分は、黒漆塗りで仕上げていた痕跡があるそうで、いかにも入念な作であったことがうかがえる。
台座および銘文について
立派な台座に乗る。八重の蓮華座といい、像が直接乗る蓮華の下に「敷茄子」「反花」「受座」「框」といったさまざまなパーツが加えられて豪華につくられているもので、平等院鳳凰堂本尊もこの八重蓮華座である。一部後補部分もあるが、ほぼ当初のものであることはまことに貴重である。
その台座内に1290年の年を含む造立時のものと思われる墨書銘および1522年の修理銘がある(ほかに1554年の銘も書かれているが、これは何のための記年か不詳)。
1290年というのは鎌倉時代も後期から末期に近づく頃で、運慶の次の次の世代である康円よりもさらにあとということになる。そうした時期に慶派の流れを本格的に汲み、これほど洗練された仏像が造られていることは驚きである。
康円以後、中央の仏師は全体的には雄渾な作風を離れていくが、地方において、鎌倉彫刻の息吹を受け継ぎ、それ以前の藤原彫刻の調和ある仏像の様式も学びながら、本格派を守った仏師がいたということなのであろうか。
仏像を年の順に一列に並べて徐々に様式が変化していくといった単純な見方でははかりきれない、仏像の世界の豊かな広がりを感じずにはいられない(1290年の銘を修理銘と解釈し、制作は13世紀前半とする説もある)。
その他
境内の鐘楼の梵鐘は鎌倉時代末期の1306年のもの。上部に溶けきらなかった古銭(宋銭)が残っているそうで、珍しい。
さらに知りたい時は…
「房総の仏像」(展覧会図録『仏像半島』、千葉市美術館、2013年)、武笠朗
『日本彫刻史の視座』、紺野敏文、中央公論美術出版、2004年
『解説版 新指定重要文化財3、彫刻』、毎日新聞社、1981年
「報恩寺阿弥陀如来像考」(『三浦古文化』12)、西川杏太郎、1972年9月