若王寺の智証大師像
「御骨大師」の写し
住所
精華町大字下狛小字林前9
訪問日
2018年12月16日
この仏像の姿は(外部リンク)
拝観までの道
若王寺(にゃくおうじ)はJR片町線(学研都市線)の下狛(しもこま)駅下車。または近鉄京都線の狛田(こまだ)駅下車。
JRと近鉄が並んで南北に通り、その西側をやはり南北に府道(22号線)が走っている。この府道を南へと進む。どちらの駅からも徒歩5分程度。
お寺の門は西を向く。
拝観は事前連絡必要。
拝観料
志納
お寺や仏像のいわれなど
かつて円満院という天台寺院があり、若王寺は円満院に属していたという。
鎌倉末期に浄土宗寺院となって再興されたと伝える。
本尊は定印の阿弥陀如来像で、平安時代の作という。来迎する姿の脇侍菩薩をともなう。
このお寺には、天台宗寺門派の祖、智証大師円珍の肖像彫刻が伝来している。
園城寺(三井寺)に伝わる2躰の智証大師像のうちの「御骨大師」と呼ばれる像の忠実な模刻像である。
13世紀前半に書かれた『宝秘記』という書物の中に、行慶という方が御蔵大師(御骨大師のことと考えられる)を模刻し、狛というところに安置したという記事がある。行慶は白河天皇の皇子で、大僧正となり、後白河上皇の帰依も厚かった。彼のつくった模刻はもとの像と寸分も違わないすぐれた出来であったという。この記録に残る模刻像が、今日若王寺に伝来する智証大師像である可能性が高いと思われる。
拝観の環境
本堂に向かって右側にある大師堂の本尊が智証大師像である。
堂内でよく拝観させていただけた。
仏像の印象
像高は約90センチ。平安時代後期の作。寄木造。
智証大師円珍の肖像は園城寺(三井寺)に2躰、共に秘仏として大切に伝えられ、「御骨大師」「中尊大師」と呼ばれている。
「御骨大師」は円珍の遺骨を像内に納めていると伝え、制作時期も円珍死去の9世紀末ごろと考えられている。一方の「中尊大師」は、三井寺の唐院大師堂の堂内中央厨子に納められていることからその名があり、つくられたのは「御骨大師」より少しあとの10世紀とされる。もちろん同一人物の肖像であるので互いに似た印象ではあるが、「中尊大師」の方がより重心が低くどっしりした感じで、頭部は抑揚が少ない。また、着衣の形式が両像では若干異なっている。
若王寺の智証大師像は、園城寺の「御骨大師」の像を模刻したものであるが、まねしてつくられた形式的な像といったものでなく、強い存在感があり、見た目も大きく感じられる。
独特の卵形にも似た頭部が特徴的で、左右の目は比較的離れ、浅く刻む。こめかみ、人中、下唇など、顔の抑揚がよくつくられている。
上半身は大きく豊かで、怒り肩である。下半身の衣は脚部をしっかりとくるんで、力強くひだを刻んでいる。
その他
智証大師像の模刻像としては、京都市内の聖護院門跡に伝来する像があり、若王寺の像と同時期の作。ただし、こちらは「中尊大師」の写しである。
このほかには、三井寺に2躰(勧学院伝来像と行者堂伝来像)と香川県の金倉寺および根香寺にも智証大師像が伝来している。
さらに知りたい時は…
『園城寺の仏像』1、思文閣出版、2016年
「若王寺智証大師像と狛千光眼寺」(『奈良学研究』18)、杉﨑貴英、2016年2月
『国宝三井寺展』(展覧会図録)、大阪市立美術館ほか、2008年
「初期天台宗の肖像彫刻」(『平安時代彫刻史の研究』、名古屋大学出版会、2000年)、伊東史朗
『精華町史 本文篇』、精華町史編纂委員会、1996年
『精華町の寺社と美術(改訂版、第4版)』、精華町史編さん委員会、1995年
「智証大師の肖像(模刻にみる美術と宗教5)」(『日本工芸美術』444)、清水善三、1975年