極楽寺の阿弥陀如来像
納入品に快慶・行快の名前
住所
城陽市富野南垣内81
訪問日
2010年11月28日
この仏像の姿(外部リンク)
拝観までの道
近鉄京都線の富野荘(とのしょう)駅下車、東南東に徒歩約10分。
事前予約必要。
拝観料
志納
寺や仏像のいわれなど
浄土宗のお寺。
阿弥陀如来立像は本堂内、正面に向って左の脇の間に安置されている。もと近くにあった阿弥陀寺の本尊だったが、1876年に極楽寺と合併したために、ここに移って来た像とのこと。
1996年の調査をきっかけに修理が行われ、像内から4種類の文書が見つかった。
その中には、1227年の年記、仏師としてアン阿弥陀仏(快慶)とその弟子行快の名前、また一方で快慶の名は供養された人々の中にもあり、話題を呼んだ。
拝観の環境
お堂の中は明るく、間近からよく拝観できる。斜めからの姿もよく見えて、すばらしい。
仏像の印象
像高は約80センチ、割矧(わりは)ぎ造、玉眼。
肉髻は低く、髪際はややカーブする。
顔つきは若々しくりりしい。
体はあまり前傾させず、左足を少し前に出すが、体はひねらず、シンプルな姿。胸やももの肉付きは厚くない。腹部はふくらんで、そこににぎやかに衣の襞(ひだ)を刻んでいる。衣の線は全体に深く、胸のあたりでは衣のたるみや反転を複雑につくる。
写真で見るとやや沈鬱な表情のように見えないでもないが、実際に近くで拝観させていただくと、清新で心洗われるような仏さまと感じる。
納入品について
像内は丁寧に黒漆で仕上げられ、その中に4種の納入品がおさめられていた。密封状態が保たれ、その保存状態は極めてよいという。
その中の「現在過去帳」の裏書きに「アン(梵字)阿弥陀仏 法橋行快造之」とあり、この像がアン阿弥陀仏、すなわち快慶とその弟子である行快によってつくられたことがわかる。
一方「法花三十講経御名帳」は、1227年7月から8月にかけて法華経を毎日一つの章ずつ読誦する法会を行った記録である。おそらく仏像の制作と平行して行われ、身内の死者が仏と結ばれることを願って施主が布施を行い、それが仏像制作の勧進となったと思われる。
注目すべきは、その8月12日の分として「過去法眼快慶」と見えることで、この時点で快慶は物故していたことがわかる。これにより、この仏像は快慶によってつくられはじめたか、またはその予定であったものが、その途中で快慶が亡くなったために、行快が完成させたものと考えられる。
これまで快慶は生年、没年ともに分かっていなかったが、この像内文書の発見によって、没年については1227年ないしそれに近い年であることが知られることとなった。
さらに知りたい時は…
『快慶』(展覧会図録)、奈良国立博物館ほか、2017年
『続日本仏教美術史研究』、中野玄三、思文閣出版、2006年
『日本彫刻史基礎資料集成 造像銘記篇 鎌倉時代』4、中央公論美術出版、2006年
「快慶以後」(『仏教美術と歴史文化』、真鍋俊照編、法蔵館)、青木淳、2005年
『月刊 文化財』489、2004年6月
「城陽市極楽寺阿弥陀如来立像について」(『密教図像』22)、近藤謙、2003年12月
『極楽寺阿弥陀如来立像修理報告書』、城陽市教育委員会、2001年