当尾の石仏
岩船寺、浄瑠璃寺に近い石仏めぐりの里
住所
木津川市加茂町
訪問日
2012年1月8日
この仏像の姿(外部リンク)
当尾石仏群について
浄瑠璃寺、岩船寺の近く、当尾(とうの、とうのお)と呼ばれる地区には、石仏や石造物の優品が多く残り、石仏めぐりの里として知られる。
ここは奈良から近く、中世には町の中の寺院のあり方を飽き足らなく感じた聖が活躍し、野に仏を刻み、また巡拝することが盛んに行われた地域であった。
当尾の石仏の特徴としては、鎌倉後期や南北朝時代に遡る古像が多いこと、摩滅が進んでいず、顔つき、体つきもくっきりとした大変保存状態のよい像が多いこと、そして銘文をともなうものも多いことがあげられる(ただし銘文の多くは、肉眼で簡単には読み取れないが)。
コースについて
石仏めぐりは、岩船寺か浄瑠璃寺のいずれかを出発地とするのが一般的であるが、両寺を比べた場合、岩船寺の方が標高が高いので、岩船寺からとする方が下り坂が多く楽である。
*岩船寺は、JR加茂駅から木津川市コミュニティバス当尾線で「岩船寺」下車。
筆者のお勧めは、岩船寺→「みろくの辻磨崖仏」 →「笑い仏」 →「不動明王磨崖仏」→「唐臼の壷磨崖仏」→「藪中三尊磨崖仏」→「東小阿弥陀石龕仏」→「大門阿弥陀磨崖仏」と見て、木津川市コミュニティバスの終点「加茂山の家」に出るというルート。
この地域はとにかく石仏、石造物が多いので、できるだけ多く見たいと思うと相当な時間がかかる。これに対して上記のコースは、比較的短時間で、当尾の石仏中特に素晴らしい像、銘文があるなど歴史的にも貴重な像をめぐることができる。
所要時間は、歩く速さ、それぞれの石仏でどれくらい時間をとってお詣りをしたり写真をとったりするかによって変わってくるので一概には言えないが、筆者の場合、1時間45分くらいだった。
当尾の石仏をめぐる道には、随所に案内が整っていて、安心して歩けるが、地図は持つ方がよい。
以前、近鉄で出していた「てくてくまっぷ 浄瑠璃寺岩船寺コース」という地図が、距離の表示まで細かく書かれていて分かりやすかった。
今も下記のURLで見ることができるようなので、参考にするとよいと思う。
→ https://www.kintetsu.co.jp/zigyou/teku2/pdf/kyoto04.pdf
整備されたハイキングコースではあるが、舗装されていない狭い道が多く、雨天時は勧められない。
お昼を挟む計画になる場合は、この地区で昼食がとれる場所は浄瑠璃寺前の数軒の食堂しかないので、頭に入れておく必要がある。
なお、この地域には、随所に無人の売店が設置され、その季節の農作物などが売られていて、楽しい。筆者のお勧めは、岩船寺前の売店にある揚げせんべいである。
岩船寺から不動明王磨崖仏(一願不動)まで
浄瑠璃寺もそうだが、岩船寺も門は北側にある。そこから南に向うには、岩船寺の東側を行くか、西側を行くかで分かれる。西側を行くと、「不動明王磨崖仏(一願不動)」に直接行くことができ、こちらの方が近い。
筆者は、「みろくの辻磨崖仏」を見たかったので、岩船寺の東を南下するルートをとった。はじめ上り坂で、後半下り坂となる細道である。途中左側にある「三体地蔵」(鎌倉末期)もよい彫りを見せているので、お見逃しなく。
「みろくの辻磨崖仏」は、鎌倉時代後期の1274年に伊末行が彫った線刻磨崖仏で、笠置の磨崖仏(焼失)の模刻である。つまり宇陀市の大野寺磨崖仏と兄弟仏ということになる。
もちろん大野寺磨崖仏に比べればはるかに小さいが、それでも像高2メートルある。しかし、残念ながら風化が進み、像容はあまりよくは分からない。
岩船寺からこの「みろくの辻磨崖仏」まで約10分。
そこから西(浄瑠璃寺方面)へ500メートルほど行くと、右側に「笑い仏(阿弥陀三尊磨崖仏)」がある。
微笑みを浮かべている表情が大変魅力的な仏像で、この地域の石仏中もっとも人気の高い像である。「みろくの辻磨崖仏」と同じ伊末行の作。
すぐ近くには、「眠り仏(埋もれ地蔵)」という石仏もある。名前の通り、土から顔だけ出して眠っているようで、ユーモラスな仏さまである。
そのすぐ先に出ている案内に従って、「不動明王磨崖仏(一願不動)」まで往復する。
この道は前半上り坂、後半下り坂で、短い道のりだが急な石段の上り下りはきびしい。この石仏は浅い肉彫りだが、風情のある不動明王の立像がやや斜めになった岩に刻まれ、必ずや頑張って来た甲斐があったと感じられる優れた石仏である。
「笑い仏」と「不動明王磨崖仏」には「岩船寺僧」という文字の入った銘文があり、これは岩船寺の寺名の初出となる貴重な金石文史料である
「みろく辻磨崖仏」から「笑い仏」を経て「不動明王磨崖仏」まで、約20分。
唐臼の壷磨崖仏と藪中三尊磨崖仏
元の道に戻り、さらに西へ向う。
「唐臼の壷(カラスの壷)阿弥陀・地蔵磨崖仏」は南北朝時代の石仏で、仏像とともにその脇に刻まれている石灯籠の線刻も見どころ。灯篭の火袋部分だけが深く彫り込まれていて、ここに献灯できるように工夫されている。
「不動明王磨崖仏」からここまで10〜15分。
その先、右手に随願寺(東小田原寺)跡があるが、通行止めとなっていた。礎石が残っているとのことだが、荒れてしまっているのだろうか。
さらに先、おもしろい形の「あたご灯篭」(江戸時代)、コミュニティバスの「東小」バス停のところを左に行くと、まもなく「藪中(ヤブの中)三尊磨崖仏」がある。
中央に地蔵、向って右に錫杖を持った長谷寺式の十一面観音、向って左には阿弥陀如来の坐像という珍しい組み合わせ。地蔵を中尊して左右に如来など本来より尊格の高い仏像を配するのは、地蔵信仰の高まりを反映するものなのであろう。1262年の銘があり、これは当尾石仏中もっとも古い銘記である。
「唐臼の壷磨崖仏」からこの「藪中三尊磨崖仏」まで10〜15分、岩船寺からのトータルでここまで1時間くらいであった。
藪中三尊磨崖仏からバス停「加茂山の家」までのルート
そこから西南へとコミュニティバスの通る道を下って行くと、浄瑠璃寺は近い。
しかし、「大門阿弥陀磨崖仏」を見るためには、「藪中三尊磨崖仏」から少し西へ行ったT字路を右折する。細道だが舗装道路である。
数分で「東小阿弥陀石龕仏(首切地蔵)」に着く。
この石仏は「藪中三尊磨崖仏」と同じ年、1262年に造られている。
「首切地蔵」の異名は、首のくびれが深いためとも、もと刑場に安置されていたからとも言われているそうだ。
さらに西北へと進み、たくさんの石仏が集められている「大門石仏群」を左に見て、曲がりくねったゆるい下り坂を進んで行くと、右側にちょっとわかりにくいが「大門阿弥陀磨崖仏」への道を示す表示が立っている。
道から谷をはさんで北側の谷の花崗岩の大岩に南面して刻まれているのが、この「大門阿弥陀磨崖仏」である。
道路から一度谷へと下りて、また登って行くと、像のすぐ近くまで行くことができる。「東小阿弥陀石龕仏」からここまでが15〜20分くらい。
ただし、この像のそばまで行ける道は、以前は埋もれてしまって、使えなくなっていた時期があったらしい。もし道が荒れていた場合は、無理せず道路から遥拝するにとどめた方がよいかもしれない。
ここから、コミュニティバスの終点である「加茂山の家」(京都府木津川市加茂青少年山の家の施設の先にある)まで約400メートル。「藪中三尊磨崖仏」からこのバス停までのトータルが45分くらいであった。
「大門阿弥陀磨崖仏」について
「大門阿弥陀磨崖仏(大門仏谷磨崖仏)」は当尾の石仏中最大であり、この地区の石仏の白眉である。ただ、岩船寺と浄瑠璃寺を結ぶルートからは外れているために、見逃している人も多いのではないかと思う。
大門というのは、このあたりに浄瑠璃寺の門があったという伝えによって生まれた地名で、阿弥陀磨崖仏とあるのは、阿弥陀の定印を結んでいるためにそのように呼ばれている。しかしながら、腹の前で左右の手を組んでいることは間違いがないものの、手の部分は摩滅し、どのように組んでいるのかはわからない。地元では、胎蔵界大日如来像であるという伝えがあるそうだ。ほかに釈迦如来、弥勒如来という説もある。
造立年代についても不詳で、奈良時代から鎌倉時代までの各説がある。この像については銘文はなく、文献にも登場せず、像名といい、年代といい、なかなか難しい。石仏の年代について、説が分かれるということはままあることではあるが。
肉髻は高く、顔はおだやかである。肩幅を広くとり、上半身は大きい。両肩および左右の胸ともあらわにしているが、一方右の胸に下に衣の一部らしきところが彫られ、一般の如来の服制とは異なっているようである。下半身の衣は省略的に表わされ、その下は裳懸け座のようだ。脚部はそれほど無理せずに立体的に見えるようにうまく彫られている。
像高は2メートル半を越える。丈六仏である。
年代、尊名不詳ながらも、堂々として、豊かな姿の仏像と思う。
さらに知りたい時は…
『南山城 石仏の里を歩く』、石田正道、ナカニシヤ出版、2015年
『浄瑠璃寺』(『新版 古寺巡礼 京都』2)、佐伯快勝・立松和平、淡交社、2006年
『当尾の石仏めぐり』、中淳志、東方出版、2000年
『南山城の石仏』上、山本寛二郎、綜芸舎、1986年