平等院鳳凰堂の阿弥陀如来像

  定朝作、和様仏像の完成形

鳳凰堂(修復前)
鳳凰堂(修復前)

住所

宇治市宇治蓮華116

 

 

訪問日 

2008年11月17日、 2015年8月24日

 

 

この仏像の姿(外部リンク)

世界遺産平等院・彫刻・工芸

 

 

 

拝観までの道

最寄り駅はJRまたは京阪線の宇治駅(ただし両駅は離れているので注意)。京阪線の宇治駅は宇治川の東側にあり、宇治橋を渡って左折すると平等院の参道である。徒歩約10分。JRの宇治駅からは東へ、やはり徒歩10分くらいである。

門のところで拝観料を払う。これで庭園と寺内の美術館である鳳翔館に入ることができる。

 

中に入ると、鳳凰堂の北側に別の受付があり、ここで鳳凰堂内の拝観を受け付けている。時間指定制で、チケットに書かれている入場時間に集合し、係の人の誘導に従う。時間は入退場と説明の時間を入れて20分間で、1回の人数は50人である。これだけ有名で人が押し寄せる観光地となってしまうと、保存と公開のバランスをどうとるかは難しい課題となり、こうした方法もやむを得ないことなのだろう。

なお、最後の回は16時10分なのだが、シーズン中の休日など、早い時間に満員となってしまうおそれもあるので、注意が必要。

 

* 2012年より2014年までのおよそ2年間修復が行われ、鮮やかな色彩の鳳凰堂がよみがえった。

 

 

拝観料

600円+志納料(鳳凰堂内部拝観)300円

 

 

お寺や仏像のいわれ

平等院は、この宇治川のほとりに源融(とおる、光源氏のモデルともいわれる平安時代前期の貴族)が別荘を設けたことに起源をもつ。別荘の主は天皇家を経て藤原道長に渡り、その子頼通の代に寺院となった。大日如来を本尊とする本堂(現存せず)が1052年に造られ、翌年阿弥陀堂として建立されたのが鳳凰堂である。

 

本尊の阿弥陀如来像も1053年につくられた。藤原頼通の時代に活躍した平定家(桓武平氏流で、代々宮廷の動きを記録したことから「にき(日記)の家」と呼ばれた)の日記『定家朝臣(さだいえあそん)記』に、京都で造られた鳳凰堂本尊が平等院へと運ばれた日の様子が書かれていて、その記述から仏師が定朝であるとわかる。

 

 

拝観の環境

堂内はやや暗いが、曇ってきたり、夕方に近づいて堂内がさらに暗くなってくると、係の人が照明をつけてくれる。斜め下方からライトのあたった像も大変美しい。

像は基本的には前からの拝観。側面はお堂への入退場の時に格子ごしに見えるので、お見逃しなく。

 

 

仏像の印象

上記のように20分間隔の案内制になってしまったため、ゆっくりと拝観することは叶わなくなったが、それでも拝観するべき仏像である。

この像は定朝作であることがはっきりと確認できる現存唯一の像であり、和様の仏像の完成度として群を抜く。

ためしにこの仏像の右肩に懸かる袈裟を見てみてほしい。左肩はしっかりと覆い、胸から腹にかけて肌をあらわし、右肩にはちょっとだけ衣を懸けるこの形は、日本の如来像に大変多い。

この右肩の衣は大きく懸かるか小さくあらわすか、厚い存在感を示すか薄く肌に吸い付くようか、襞(ひだ)は賑やかにあらわすか、一部が裏返るなど変化に冨むか、またその端のラインは美しいか。どれもそう変わりないように見える衣も、よく見ると仏像ごとに異なっている。そして、仏像の美しさは全体のバランスのみならず、このような細部にこそ現れるものである。右肩の衣の優美さは、そのままこの仏像の美しさに通じている。

 

 

その他

落語の「三十石」はもともと上方落語ネタだが、三遊亭円生は江戸っ子が上方を旅する話に置き換えて演じていた。この中に平等院のことが出てくる。伏見の船宿の主人が周辺の名所をまくしたてる場面で、「平等院はたいしたものでないが、万福寺は一見の価値がある」というような台詞があったと記憶する。

現在では、黄檗山万福寺は知らなくとも、平等院鳳凰堂は誰もが知っている。だが、落語の舞台になっている江戸時代には、平等院と万福寺の人気は現在と逆であったのだろうか。

 

意外なことに、近代の初期においても鳳凰堂本尊の評価はそれほど高くなかったらしい。日野・法界寺の阿弥陀如来像や興福寺国宝館で以前展示されていた薬師如来像(納入品から1013年作とわかる)の方が優れた像として論じられることが多かったという。はなはだしい論調では、「定朝最晩年の作で、最盛期の面影はなく、弟子の手も多く加わる」とか「顔は後世の補作か」といったものまであったそうだ。

こうした否定的評価は、当時の写真によるところも大きい。この頃の技術では、狭い堂内にカメラを据えて下から撮るとどうしても顔が黒くなってしまい、見栄えのしないものになっていた。

1930年代になってこの像が定朝の真作であることを確定するいくつかの論文が出されたが、その評価は依然としてぱっとするものではなかった。

 

それが戦中に書かれた『平等院図鑑』によって一変する。これまでの論調を考えれば唐突なほどに鳳凰堂像を日本美の最高峰として扱い、現在までのこの像の評価を決定づけたのである。

この本の著者は福山敏男らであるが、福山は日本の仏教美術史の発展に大きな功績のあった優れた学者であり、彼の評価が定着して今日に至ったのはむべなるかなである。しかし同時に、『平等院図鑑』という本が戦中という時代背景のもと、民族意識を高めたいという意図を伴って発刊されたという面があることもまた看過できない。

評価というものは、このように時代の要請とともに下されるものなのだろうか。考えさせられることである。

 

 

さらに知りたい時は…

『奈良・京都の古寺めぐり』、水野敬三郎、岩波ジュニア新書、2012年(改版発行)

『週刊朝日百科 国宝の美』25、朝日新聞出版、2010年2月

『仏像の秘密を読む』、山崎隆之、東方出版、2007年

『講座日本美術史』6、岩波書店、2005年

『院政期の仏像』、 京都国立博物館編 、岩波書店 、1992年

『平等院大観』2、岩波書店、1987年

『大仏師定朝(『日本の美術』164)、水野敬三郎、至文堂、1980年

『日本彫刻史基礎資料集成 平安時代 造像銘記篇』6、中央公論美術出版 、1968年

『平等院図鑑』、福山敏男・森暢、桑名文星堂、1944年(再販は高桐書院、1947年)

 

 

仏像探訪記/京都府

(修復後)
(修復後)