大念寺の阿弥陀如来像
浄土宗西山派による造仏の遺例
住所
大山崎町大山崎上ノ田69
訪問日
2010年1月31日
拝観までの道
JR東海道線(京都線)の山崎駅から駅の東側の踏切を渡って北へ。宝積寺への上り坂の途中にあり、駅から徒歩5分くらい。また、阪急線の大山崎駅からも徒歩約5分。
拝観は事前連絡が必要。
拝観料
志納
お寺や仏像のいわれ
創建は戦国時代、京都・知恩院の第27代、徳誉光然によって開かれた。
当時最盛期を過ぎていたとはいえ、油座の発展によって富を集めていたこの地域に、浄土宗が布教の拠点としておいた寺院がこの大念寺であった。
一時はいくつかの末寺をもつほど栄え、その後の幕末の動乱と近代初期の廃仏を乗り越えて今日に至っている。本尊は阿弥陀如来坐像。
本堂脇の書院に、厨子に入って阿弥陀如来立像が安置されている。
もと大念寺の末寺・浄土院に伝来したが、そこが近代初期に廃絶したために、大念寺に移安された。
拝観の環境
お部屋は明るく、またすぐ前に寄ることができるので、とてもよく拝観できる。
仏像の印象
像高は80センチ余り。ヒノキの割矧(わりは)ぎ造と思われる。
この像は、真正極楽寺(真如堂)本尊の阿弥陀如来立像と酷似する。真如堂像は来迎印を結ぶ三尺阿弥陀像の嚆矢とされる像で、円仁自刻の霊像(またはその模刻像)。清凉寺式釈迦像ほどは流布していないが、この真如堂像も霊験あらたかな像であるとして模刻の対象とされたようで、愛知県西尾市の常福寺などにも模刻像が伝わっているそうだ。
真如堂像は変形の来迎印、すなわち右手は親指と人差し指で丸をつくるが、左手は親指と中指で丸をつくるとともに薬指を少し曲げるという姿をしている。大念寺の像は真如堂像と印相が同じであるだけでなく、全体の雰囲気も非常に近く、衣の襞(ひだ)の数も同じであるという。
しかし、細部にわたってまったく同じといえば、そんなことはない。最も異なるのは、大念寺の像が玉眼であることである。また、全体にやや細身であり、特に顔は近くで見ると引き締まり、若々しくみずみずしい感じで、いかにも鎌倉彫刻という様子をしている。
写真で見ると両像はほんとうにそっくりに見えるが、実際に近くで拝観すると、平安時代の像を鎌倉時代に写せば、鎌倉という時代の雰囲気がこのように色濃く出るものかと感心させられる。
納入品について
この像の中はおびただしい納入品がぎっしりと詰まっており、戦前に取り出された。像内は漆箔によって荘厳されていたという。
納入品は、月輪(がちりん、木製で14センチほどのもの)、未敷蓮華(みふれんげ、蓮華のつぼみの形の木製品で10センチほどのもの)、経典類、結縁者の名簿などで、その中には鎌倉前期の1243年の年や法然の高弟である証空(しょうくう)上人の名、また証空の弟子たちや関係者の名前が見える。
特に阿弥陀の種子(しゅじ、仏をあらわす梵字)であるキリークが墨書された月輪には、証空と道覚法親王の名前が書かれている。証空は法然没後、京都西山に住んで、浄土宗西山(せいざん)派の祖となる。道覚は後鳥羽天皇の皇子で、後には天台座主となるが、この時期には父・後鳥羽上皇が承久の乱で敗れたことを受けて、証空を頼り西山に移り住んでいた。
この阿弥陀如来像は、納入品に記載された名前から、証空や道覚、また証空の弟子や関係者によって作られた像であると考えられている。
また、証空の伝記には真如堂の仏像を模して臨終仏としたと書かれており、それがこの像にあたると思われる。
これら納入品にはおびただしい結縁者が名前を連ねているが、その中には九条兼実(かねざね)の女(むすめ)で後鳥羽天皇中宮の宜秋門院任子(1243年に時点で故人)、摂関をつとめ、東福寺を建立したことでも知られる九条道家、有力御家人の宇都宮頼綱、平清盛の異母弟で平家一門とたもとを分ち頼朝の軍門に下った平頼盛(故人)などの名前も見える。
この納入品は、初期の浄土宗西山派の様子や当時の政界・宗教界の人間関係を知る重要な史料ともなっている。
なお、残念ながら作者の名は書かれていないが、快慶に近い仏師の作であるとする推定がある。
さらに知りたい時は…
「ほっとけない仏たち41 大念寺の阿弥陀如来像」(『目の眼』512)、青木淳、2019年5月
『法然と親鸞 ゆかりの名宝』(展覧会図録)、東京国立博物館ほか、2011年
『日本彫刻史基礎資料集成 鎌倉時代 造像銘記篇』6、中央公論美術出版、2008年
「大念寺蔵阿弥陀如来像成立の<場>」((頼富本宏編『聖なるものの形と場』、法蔵館)、加藤善朗、2004年
「初期證空教団における『結衆』の特質」(『西山学会年報』6)、青木淳、1996年
「西山證空における造像の研究」1,2(『西山学会年報』2,3)、青木淳、1992,1993年
『大山崎町史 本文編』、大山崎町史編纂委員会、1983年
『別尊京都仏像図説』、美術史学会、1943年