清水寺仁王門、本堂の仏像

各時代の魅力的な像多数

仁王門
仁王門

住所
京都市東山区清水1丁目294


訪問日 
2024年10月13日


拝観までの道
最寄りバス停は「五条坂」、または「清水道」。そこから登り坂を約10分ほど行くと清水寺の仁王門の前に着く。なお最寄り駅は京阪線の清水五条(そこから歩けば約25分)。
清水寺は創建以来どの時代にあっても常に多くの人々を惹きつけてきた寺院であり、それは今日も変わらない。開門時間が早い(6時)ので、混雑を避けたいのでれば早朝の時間帯がよいかもしれない。

音羽山清水寺ホームページ


拝観料
仁王門は拝観自由。本堂(轟門より先)は500円


お寺や仏像のいわれなど
奈良時代後半の創建。
京都東山の山中、滝水豊かな地で観音を念じる行者、行叡のもとへ、奈良・高取山の子島寺で修行をしていた賢心(のち延鎮と改名)が観音の夢告に導かれてやってきた。すると、行叡は庵と前に立つ霊木を賢心に委ねて、東国の方へと去っていったという。賢心は庵を受け継ぎ、また霊木から観音像を刻んでまつった。これが清水寺の始まりと伝える。なお、東山の清浄な滝、水の地ということから清水寺と称されるようになったが、もとは北観音寺といったらしい。
それからしばらくのち、平安時代前期を代表する武人となる坂上田村麻呂が妻の薬を取るためにこの地へとやってきた。その薬は鹿などの動物の血や内臓であったことから、賢心は殺傷を諌めて観音への帰依を説いたところ、田村麻呂は清水寺の檀越となり、伽藍の整備が進んだという。

以後、清水寺は観音の霊場、坂上氏の氏寺、国家鎮護の寺院、興福寺の末寺という4つの顔を持つ寺院として発展する。とりわけ観音霊場として名高く、『梁塵秘抄』でも観音の霊験あらたかな寺の先頭にその名があげられ(ほかに長谷寺、石山寺、粉河寺などがうたわれている)、江戸時代には本尊開帳行事に殺到した人々が清水坂で将棋倒しとなる事故まで起こったという。

その一方で、地震、大風、比叡山との衝突、応仁の乱の兵火などの災害に繰り返しみまわれ、江戸時代前期の火災では仁王門などいくつかの建物を除きほぼ全焼という惨状となった。
そうした災難にもかかわらず、清水寺には数々の古像が伝わるが、残念ながらその多くは秘仏、非公開となっている。しかし、仁王門の仁王像をはじめ、直接拝観できる魅力的な像も多い。
なお、かつては法相宗寺院(真言宗を兼修)であったが、戦後に北法相宗として独立した宗派となった。


仁王門の仁王像
清水寺の正門にあたるのが仁王門である。清水寺への坂を登り切るとその堂々たる姿が目に飛び込んでくる。室町時代の再建。2000年代になって修理が行われ、朱と緑色、白色が美しい。
左右に仁王像が安置される。金網越しだが、自由に拝観できる。もっともこの場所は多くの人たちが集って互いに写真を撮りあっていたりするため、やや落ち着かない雰囲気ではある。
像高3メートル半を超える堂々たる像で、迫力があり、バランスもよく、京都の町で見られる仁王像の代表的作例である。
制作年代は仁王門再建時(室町時代)と考えられるが、あるいはその1つ前の鎌倉時代の作で、室町時代の修理を経て今日に伝わったものではないかともされる。

*『古寺巡礼京都24 清水寺』(淡交社、1978年)の図版に本像の顔を正面から撮った写真が掲載されている。本当に迫力があり素晴らしい。

仁王門の手前左側に善光寺堂(地蔵院善光寺堂)がある、小さなお堂なので見過ごされがちだが、如意輪観音像が安置され、鎌倉時代末期ごろの作。像高は90センチ以上あり、寄木造、玉眼。安定感のある座り姿、凛々しい顔立ちの像である。拝観自由。

仁王像(吽形)
仁王像(吽形)


轟門の二天像
仁王門から一段上がり、三重塔、随求堂、経堂、田村堂などいくつかのお堂の前を過ぎると、轟門(とどろきもん)の前に出る。本堂に至るいわば中門にあたる。
江戸時代の再建だが、左右に立つ二天像(持国天像、広目天像)は平安時代の古像である。像高は約170センチの立像。動きを抑えた素朴な像で、可愛らしくもあり、その一方で謹厳さも感じられる。


本堂の仏像
轟門をくぐると拝観受付がある。その先が本堂である。

まず、大黒天像(「出世大黒」)が迎えてくれる。像高が1メートル以上あり、巨大な頭部、大ぶりの目鼻立ちに圧倒される。2008年に修復され真新しい像のようになっているが、室町時代の作で、もと鴨川の五条橋の中島にあった大黒堂に安置されていたという。
その左手に、ひっそりと阿弥陀如来像がまつられている。「塩断ち阿弥陀」の異名を持ち、塩を断って願いの成就を祈願したことからこの名があるという。茶断ちくらいはよく聞くが、塩断ちとはまた凄まじい。
像は鎌倉時代ごろの作というが、やや暗く、よく見るのは難しい。

清水寺の本堂は江戸時代前期の再建。拝観は礼堂(外陣)からとなる。
本尊は三体の秘仏で、中央は千手観音像(前立ち像が立つ)、脇に毘沙門天像と地蔵菩薩(勝軍地蔵という異形の地蔵菩薩)で、礼堂から相の間(内陣)を挟んで正堂(内々陣)の須弥壇上、それぞれ厨子中に秘される。
中央の厨子を挟むようにして二十八部衆像が安置されており、礼堂よりかろうじて覗き見ることができる。室町時代ないし江戸時代前期の作というが、江戸前期の本堂火災後の再建時に運慶流の末裔である七条仏師によってつくられた像であるようだ。8月中旬の千日詣りの数日間は特別拝観として近くで見ることができるらしい。
礼堂の上部の欄間に3体の大きな懸け仏(御正体)が取り付けられている。これらは本尊が秘仏であるために、直接拝めるものとしてつくられてここに架けられているもので、江戸時代前期にこのお堂が再建された際に奉納されたものという。


その他
本堂を抜けた先には釈迦堂、阿弥陀堂、奥の院(奥の千手堂)の3つのお堂が軒を連ねる。奥の院の本尊(千手観音坐像)は本堂本尊同様秘仏だが、前立ち像や脇仏は覗けばかろうじて見ることができる。


さらに知りたい時は…
『清水寺のみほとけ』、清水寺、東京美術、2021年
『清水寺史』4、清水寺史編纂委員会、2011年
『京都 清水寺展』(展覧会図録)、そごう美術館、2006年
『清水寺史』2、清水寺史編纂委員会、1997年
『ガイドブック 清水寺』、横山正幸、法蔵館、1996年
『清水寺史』1、清水寺史編纂委員会、1995年
『古寺巡礼京都24 清水寺』、大庭みな子ほか、淡交社、1978年


仏像探訪記/京都市

東側からの本堂シルエット
東側からの本堂シルエット