清凉寺霊宝館の阿弥陀三尊像

  春、秋に約2ヶ月ずつ開館

住所

京都市右京区嵯峨釈迦堂藤ノ木町46

 

 

訪問日

2009年11月22日

 

 

この仏像の姿(外部リンク)

京都観光Navi

 

 

 

拝観までの道

清凉寺までの道は、清凉寺本堂釈迦如来像の項をご覧ください。

 

霊宝館(れいほうかん)は、春(4、5月)と秋(10、11月)の各2ヶ月間公開。

 

 

拝観料

400円(本堂と共通券700円)

 

 

お寺や仏像のいわれ

清凉寺の前身は、嵯峨天皇の子の源融(とおる)がここ京都・嵯峨の地につくった別荘、棲霞観(せいかかん)である。

融は阿弥陀仏への信仰厚く、阿弥陀像の造立を発願するが果たせずなくなった。その子、湛(たたう)と昇(のぼる)は融の意志を継ぎ、棲霞観内に新堂をつくって阿弥陀仏と両脇侍像をまつり、また経典をおさめた。これが棲霞寺である。

その経緯は融の二人の子息による願文によって知られる。この願文は当時文作の天才と目されていた菅原道真によって書かれ、『菅家文草』(菅原道真の自選漢詩文集)巻十二に掲載されて今日へと伝わる。これによると像の完成は源融の一周忌である896年のこととわかる。

 

そののち、ちょう然(ちょうねん、「ちょう」の字は「大」の下に「周」を書く)が宋より「三国伝来」の釈迦瑞像を持ち帰り、棲霞寺内に清凉寺釈迦堂を設けた。

この釈迦像の信仰の高まりとともに棲霞寺の名前は忘れられて清凉寺、通称嵯峨釈迦堂と呼ばれるようになった。

 

棲霞寺の後身が、清凉寺の本堂に向って右側の阿弥陀堂である。お堂は江戸時代の再建だが、ここに安置されていた阿弥陀三尊像は融の子息が896年に完成させた像と考えられている。

 

清凉寺ホームページ

 

 

拝観の環境

この阿弥陀三尊像は、現在は阿弥陀堂の裏手につくられた宝物館である霊宝館に移されている。

入ってすぐ左側に安置されているが、あまり広いスペースでないので、若干窮屈そうである。

正面からのみの拝観。明るいライトの下、間近でよく拝観できる。

 

 

仏像の印象

中尊の阿弥陀如来像は像高約180センチの坐像、脇侍像は165センチほどでやはり坐像である。三尊すべてが坐像という組み合わせは、例がないわけではないが珍しい。脇侍像は中尊よりひとまわり小さいだけのスケールで、三尊の脇侍としてはかなり大きい部類に入る。中尊は定印で、これは阿弥陀像としてはよく見る印相だが、脇侍像は両手を腹の前に出して、あまり見ない構えをしている。

 

中尊は像高約180センチ。実に凛々しい像である。源融は光源氏のモデルともいわれ、その融ゆかりのこの仏像は融の面影、ひいては光源氏のイメージを伝えるものとお寺のパンフレットにも書かれているが、そのようにいわれるのも頷ける気がする。

体は四角いつくりで、足は大きく張り、安定感がある。螺髪(らほつ)は大粒。足も大きい。

 

脇侍像は像高170センチ弱。中尊同様きりりとした面相で、腕はすらりと伸びているというよりは印を結んで充実感があり、ぐっと引き締まっている感じがする。条帛の襞(ひだ)や裳の裾の扱いなど、衣の質感を大切にしている。また衣を通して豊かな肉体の存在を強く感じさせる。腕には大きく豪華なアクセサリーがつけられている。実に入念な作と思う。

三尊とも衣は重厚で、太い波を繰り返してつくられた襞は、力強さと装飾性がともに感じられる。

 

構造としては三尊ともヒノキの一木造。漆箔で仕上げる。これほどの像の体幹部を一材でつくるのには、もとの木はよほどの大木であったのだろう。背中から内ぐりをしている。頭髪など一部に乾漆を併用している。

 

 

定印の阿弥陀像をめぐって

既に述べたように中尊の印相は定印である。

定印は、坐像でおなかの前で手を重ね、瞑想しているさまをあらわし、釈迦如来像などでもよくみられるが、阿弥陀像の場合は指で輪をつくることが一般的である。

有名な平等院鳳凰堂本尊など、この印相の阿弥陀像は多いが、意外なことに平安時代に入ってから現れる姿である。それ以前の阿弥陀仏は、施無畏与願印という如来像に通有の姿か、または両手を胸前に構える説法印をとるものが多い。これは極楽浄土の教主として説法をしている姿で、有名な当麻曼荼羅図の阿弥陀像もこの説法印であり、広隆寺講堂本尊像など奈良時代〜平安時代前期の阿弥陀如来像にはこの印のものが多い。

 

実はこの旧棲霞寺の三尊像は、仁和寺の阿弥陀三尊像などとともに定印の阿弥陀如来像として古例に属する。

ではいかなる経緯で、定印の阿弥陀像がつくられるようになったのだろうか。

結論から言えば、両界曼荼羅に描かれた阿弥陀如来像が定印の姿であるので、そこから仏像彫刻の阿弥陀像にもこの定印のものがつくられるようになったと考えられている。

 

ところで、旧棲霞寺三尊像の脇侍は観音・得大(勢至)菩薩であることがその造立願文から明らかであるが、しかし独特の手の印は密教系の儀軌(ぎき、仏像に関する決まりごとを記した経典)に基づくものではないかという指摘がある。このことから、この三尊像は密教系の像容をとりつつ、密教以前からの阿弥陀、観音、勢至の三尊像として再構成されて生まれた像であると考察することができる。

 

 

その他

霊宝館には文殊菩薩像、四天王像、十大弟子像など、平安彫刻の宝庫である。ただしそれぞれの伝来はよくわからない。旧棲霞寺の仏像、請来された釈迦瑞像の眷属としてつくられた仏像、さらに他寺から流入した像も含まれているのかもしれない。

また、2階には釈迦瑞像の納入品の一部が展示されている。

 

 

さらに知りたい時は…

『日本彫刻史の視座』、紺野敏文、中央公論美術出版、2004年

『日本彫刻史基礎資料集成 平安時代 重要作品篇』5、中央公論美術出版、1997年

「醍醐寺如意輪観音像考」(『美術史』132)、津田徹英、1994年4月

「新指定の文化財」(『月刊文化財』334)、文化庁文化財保護部、1991年7月号

『阿弥陀如来像』(『日本の美術』241)、光森正士、至文堂、1986年6月

『塚本善隆著作集』7、大東出版社、1975年

『菅家文草 菅家後集』(『日本古典文学大系』72)、岩波書店、1966年

 

 

仏像探訪記/京都市

勢至菩薩像
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