清凉寺本堂の釈迦如来像
三国伝来の生身仏
住所
京都市右京区嵯峨釈迦堂藤ノ木町46
訪問日
2007年7月8日、 2015年8月24日
この仏像の姿(外部リンク)
拝観までの道
清凉寺は嵯峨釈迦堂とも呼ばれ、京都市右京区にある。
京都駅からは京都バスまたは市バスで「嵯峨釈迦堂前」で下車するか、山陰線で嵯峨嵐山駅から歩く(北西方向に徒歩約15分)。嵯峨嵐山駅の近くにはレンタサイクルもあり、付近の寺院とともに訪れるのには便利。
本尊の釈迦如来立像は秘仏で、毎月8日の11時に開帳される。
*それ以外にも拝観できる日がある(後述)。
拝観料
400円
お寺や仏像のいわれ
清凉寺の歴史をたどると、平安前期の貴族、源融(とおる)にゆきつく。
融は嵯峨天皇の子で、臣籍に下って源を名乗った。光源氏のモデルともいわれ、宇治と嵯峨に別荘をもつなどいかにも華やかな平安貴族という人物であったが、晩年は深く阿弥陀仏を信仰し、嵯峨の別荘・棲霞(せいか)観の中に阿弥陀堂を建立した。これが棲霞寺のはじまりである(9世紀末)。
それから1世紀近くたった10世紀後半、一人の僧が中国の宋(北宋)を目指した。東大寺出身のちょう然(ちょうねん、「ちょう」の字は「大」の下に「周」を書く)である。彼は中国の霊場巡礼を果たし、さらに宋の都開封の滋福殿においてインドから伝来したという写し身の釈迦像を拝することを得た。
帰国を前にしたちょう然は、この生身(しょうじん)の釈迦像を模刻して日本に持ち帰りたいと考えた。彼は南都仏教の興隆を願い、請来した釈迦像を中心とする大伽藍を京の西北の愛宕山に建設したいという願いをもっていたという。
釈迦像の造像は985年。制作した工人は張延皎、延襲の兄弟で、その他多くの中国人の援助もあったようだ。
翌年ちょう然は九州に到着、さらにその翌年に京都に戻った。ちょう然は法橋の位を与えられ、釈迦像を拝するために多くの貴族が集まるなどの盛り上がりがあったものの、愛宕山に寺院を建立するという志は遂げられなかった。結局、愛宕山に近い京都・嵯峨の棲霞寺の境内に釈迦像を安置するための堂が作られ、これが今日の清凉寺のはじまりとなった。
棲霞寺に間借りしていた清凉寺であるが、時代とともに主客は逆転した。ちょう然請来の釈迦像は盛んに信仰を集め、平安後期時代以後多く模作され、清凉寺式釈迦像として日本各地に分布している(全国で50から100体あるといわれる)。江戸時代には江戸で出開帳されたこともあり(この時使われた輿が本堂内に展示されている)、釈迦像の豪華な厨子(寺では宮殿と呼んでいる)は5代将軍綱吉の母、桂昌院の寄進であるなど、徳川将軍家の尊崇も集めた。(他方、棲霞寺は、清凉寺内の阿弥陀堂をその後身とするばかりである。)
以上のように、清凉寺本尊は、年代・造像の由来・伝来等がきわめて明確な宋代初期の仏像である。
なお、若き頃の法然がこの釈迦像に参じたことがあり、そうした縁もあって清凉寺は現在は浄土宗の寺院となっている。
拝観の環境
本尊開扉の時間をめがけて清凉寺を訪れると、本堂内ではすでに多くの信者の方々がご開帳を待っていらっしゃった。11時少し前に半鐘が鳴らされ、僧侶が入場。読経が始まると信者の方も声を揃え、やがて釈迦像の前に垂らされていた布が巻き上げられて、開帳となる。なかなかの演出である。そのあとお焼香となり、信者の皆さんのあとにくっついて、間近(といっても厨子との間には距離があるが)に像を拝ませていただいた。
*8日11時のご開帳時以外の拝観について
信者会によるご法要が終了したあと、13時半くらいからはゆくっりと拝観ができる。また、春(4、5月)と秋(10、11月)の各2ヶ月間は、お寺が開いている時間はずっとご開帳されていて、拝観が可能である。その他の日でも、1000円の拝観料を足せば開帳いただける。
仏像の印象
像高は約160センチ、ほぼ等身大の像である。
その姿は通常の日本の仏像とはかなり異なっている。螺髪(らほつ)でなく、渦巻き状に表現された頭髪。細かく平行に刻まれた衣文の襞(ひだ)は、脚部ではさらに複雑に流れている。細身・長身で、衣は胸を開かないが、その下の体のふくらみがよく表現されている。顔つきも印象的で、目には黒い石を入れ、眉は大きく弧を描く。お焼香で釈迦像の前に立った時には、仏像を拝観しているという感じがせず、昔から生身の釈迦像として信仰されてきたのは故なきことではないと感じた。
材は魏氏桜桃という木といわれてきたが、最近、クスノキ科の木材(ただしクスノキそのものではない)と判明した。クスノキ科の樹種は構造が似通っている上に、中国にはクスノキ科の木が400種以上生育しているそうで、クスノキ科の木材というところまではわかっても、そこから先の特定は難しいのだそうだ。
光背は日本のサクラ材であり、11世紀中頃に補われたものという。
台座は、もともとは反花(かえりばな)座のみであったらしい。反花とは下を向いた蓮弁をかたどった台座で、これだけだと非常にシンプルである。光背が補われたのと同じ時期に仰蓮(ぎょうれん、台座の上向きの蓮弁部分)を補い、現在の姿となったと考えられている。
なお、鎌倉前期の1218年、快慶がこの像を修理している。
その他1
ちょう然が宋の宮廷で拝した釈迦像(清凉寺像のもとになった像)は、もともと揚州の開元寺にあった像である。その後燕京(現在の北京)に移され、長く同地にあったが、1900年の義和団事件で安置されていた栴檀寺が焼かれ、以後行方不明という。
その他2
釈迦像の像内納入品の一部は、宝物館である霊宝館(春と秋、各2ヶ月間公開)で展示される。
さらに知りたい時は…
『MUSEUM』679(特集:「小原二郎氏旧蔵木彫像用材調査標本」の再調査)、2019年4月
『木×仏像』(展覧会図録)、大阪市立美術館ほか、2017年
『日本美術全集』6、小学館、2015年
「清凉寺釈迦如来像とちょう然」(『方法としての仏教文化史』、中野玄三編、勉誠出版)、井上一棯、2010年
『清凉寺釈迦如来像』(『日本の美術』513)、奥健夫、至文堂、2009年
『日本中世仏教形成史論』、上川通夫、校倉書房、2007年
「生身仏像論」(『講座日本美術史』4)、 奥健夫、 東京大学出版会、2005年
「清凉寺釈迦如来像と北宋の社会」(『国華』1269号)、 長岡龍作、 2001年
『仏像と人の歴史発見』、清水眞澄、里文出版、1999年
「清凉寺釈迦如来立像」(『世界美術大全集』東洋篇5)、 長岡龍作、 小学館、1998年
『釈迦信仰と清凉寺』(展覧会図録)、京都国立博物館編、1982年
『日本彫刻史基礎資料集成』平安時代・造像銘記篇1、中央公論美術出版、1966年
『清凉寺』、佐々木剛三、中央公論美術出版、1965年