広隆寺講堂の阿弥陀如来像

  平安前期阿弥陀如来像の大作

住所

京都市右京区太秦蜂岡町32

 

 

訪問日 

2009年11月22日、 2015年8月24日

 

 

 

拝観までの道

京福電鉄嵐山本線の太秦(うずまさ)広隆寺駅下車、すぐ北西の方向に南大門が見える。

JRの太秦駅からは東南東へ10〜15分。

三条京阪や四条河原町などから市バス、京都バスが出ている(「太秦広隆寺」バス停下車、すぐ)。

 

南大門を入ると正面が講堂。俗に赤堂とも呼ばれ、平安時代、1165年の再建である。京都市中に残る建物の中で最も古いもののひとつだが、中世、近世にかなり改造されている(金堂として使われたこともあったらしい)。

本尊は丈六の阿弥陀如来像。

 

 

拝観料

なし(霊宝館は700円)

 

 

お寺や仏像のいわれ

広隆寺は法隆寺、四天王寺など聖徳太子がつくった7つのお寺のひとつといわれるが、実際には渡来系で早くから山背(山城)に勢力をもっていた秦(はた)氏が建立した寺院である。創建は飛鳥時代であり、今日まで続く日本のお寺の中で最古のもののひとつである。

当初は蜂岡寺、秦寺、秦公寺などと称したらしい。しかしこれらは同じ寺院の別称か、または複数の前身寺院が広隆寺となったのか等、創建期の広隆寺については不明な点が多い。

 

平安前期の818年に全焼し、830年代以後に復興を遂げた。この復興期に大いに力を発揮したのが、広隆寺別当となった道昌(どうしょう)である。道昌は秦氏出身の僧で、淳和天皇の信頼が厚かった。「行基の再来」といわれるほど僧であったらしい。彼のもとで多くの堂宇が建てられて広隆寺は再び繁栄を取り戻した。

広隆寺講堂本尊の阿弥陀如来像はこの時期、淳和天皇の女御、永原御息所によって造立された像と考えられている。

 

 

拝観の環境

お堂の扉口から金網ごしの拝観。像までの距離があり、加えて堂内は暗い。外の光がいくぶんでも入る好天の日の拝観が望ましい。

 

 

仏像の印象

像高260センチを越える坐像で、木心乾漆の技法でつくられている。手は説法印を結ぶ。

大きな像である。実際の大きさが丈六の巨像であることに加え、像の雰囲気が茫洋としていかにも大きい。「威風あたりを払う」という言葉があるが、まさにそういう感じを受ける。

肉髻は高く、螺髪は小粒で整然と並ぶ。額は大きくとり、目鼻立ちは林厳である。顔は四角ばり、体は厚みを感じさせる。衣の線は太くあらわされ、乾漆という技法を生かした滑らかで大らかな衣褶である。

前で組む手の位置はやや低い。やってみると分かるが、胸の前で組む方が楽で、脚に近い位置に下げ、さらに腕をぐっと張っていくと少し辛い。その緊張感、充実感が直接伝わってくる。

 

 

造像年代について

広隆寺には9世紀後半につくられた寺の財産目録が2種類伝わっている。「広隆寺縁起資財帳」と「広隆寺資財交替実録帳」である。これらに講法(画)堂の仏像として載せられている「金色阿弥陀仏壱躯 居高八尺 故尚蔵永原御息所願」とあるものが、現在の講堂本尊の阿弥陀像と考えられている。

尚蔵は後宮の高官で、永原女御がこの位にあったときの造像と解することができ、これが像の年代を知るヒントとなる。

また、このころの阿弥陀如来像は追善のために造像されることが多かったことから、840年の淳和上皇の死去を契機につくられたのではないか、あるいは842年に死去した嵯峨上皇の1周忌につくられたのではないかなどと論じられている。

 

 

その他

阿弥陀如来像の左右には地蔵菩薩と虚空蔵菩薩の坐像が安置されている。像高2メートル前後の大きな像で、「資財帳」の記述によって、広隆寺を中興した道昌によって造像された像とわかる。ヒノキの一木造。9世紀なかばの作である。

 

 

さらに知りたい時は…

『平安密教彫刻論』、津田徹英、中央公論美術出版、2016年

「広隆寺講堂両脇侍像の造立年代について」(『文化史学』66)森井友之、2010年11月

『週刊朝日百科 国宝の美』17、朝日新聞出版、2009年12月

『極美の国宝仏 広隆寺の仏像』下、同朋舍メディアプラン、2002年

『週刊朝日百科 日本の国宝』015、朝日新聞社、1997年6月

『日本彫刻史基礎資料集成 平安時代 重要作品篇』2、中央公論美術出版、1976年

「広隆寺講堂阿弥陀如来像の造立年代について」(『国華』974)、浅井和春、1974年11月

 

 

仏像探訪記/京都市