広隆寺の聖徳太子像・薬師如来像

  毎年11月22日に開扉

住所

京都市右京区太秦蜂岡町32

 

 

訪問日

2009年11月22日

 

 

 

拝観までの道

広隆寺までの行き方は、広隆寺講堂の阿弥陀如来像の項をご覧ください。

 

南大門を入ると正面が講堂、その先に上宮王院太子殿がたつ。境内のほぼ中央にあり、これが広隆寺の本堂にあたる。江戸時代中期の建物。

本尊は平安時代の聖徳太子像で、毎年11月22日のみ公開される。

この日は御火焚祭という祭礼が行われる。法要は13時からだが、太子殿内拝観は9時から16時まで可能。

 

太子殿のさらに先(北側)に広隆寺の宝物館である霊宝殿がある。

無休だが、霊宝殿内の厨子中に安置されている薬師如来像(旧金堂本尊との伝承をもつ)は、聖徳太子像と同じ11月22日に開扉される。

 

 

拝観料

太子殿は特に拝観料の設定なし。霊宝殿は一般700円。

 

 

仏像のいわれなど

本来広隆寺の本尊は、「国宝第1号」として有名な宝冠弥勒菩薩像であったらしい。この像についてはわからないことも多いが、おそらくは新羅から7世紀前半にもたらされ、秦氏に与えられて、その氏寺である広隆寺の本尊としてまつられたものと思われる。

 

ところが、9世紀後半に作成された広隆寺の財産目録である『広隆寺資財交替実録帳』の金堂仏像の項の最初には、「霊験薬師仏檀像一躯 居高三尺 内殿にあり」と記載される。これに続いて、「金色弥勒菩薩像一躯 居高二尺八寸 いわゆる太子本願御形」とある。弥勒菩薩像は聖徳太子ゆかりと考えられ重んじられてはいるものの2番めの仏像に下がり、本尊は「霊験薬師仏」に変更されたと読める。

また、これらの仏像の記述の後に、「もとより安置していた」との注記がある。この「もとより」の意味が難しいが、おそらく「818年の広隆寺火災以前から」という意味と考えられる。

別の史料(『広隆寺別当補任次第』)には、「霊像薬師像、居高三尺」の安置年について、貞観年中(9世紀後半)と、延暦16年(797年)の2説があげられている。818年以前の安置という条件を考えあわせると、この薬師像は797年に造立されたか、または他からもたらされたと考えられる。

このころ、疫病や怨霊を除くための薬師信仰が高揚していた。818年の火災で全焼し、いかにして復興してゆくのかという大きな課題の中にあった広隆寺は、薬師信仰の寺として再出発をはかったのではないかと推測される。

 

11世紀以後浄土教が盛んになり、浄土への導きを担当する観音信仰、さらに聖徳太子は観音の化身であるとして太子信仰が高まる。

聖徳太子の死は623年。折しも太子の死後500年という節目の年が近づき、その信仰はいや増しに盛り上っていったようである。こうした動きを受け、広隆寺も薬師信仰から聖徳太子ゆかりの寺院であることを前面に押し出すようになった。

そうした時代背景のもと、上宮王院太子殿の本尊である聖徳太子像がつくられたと考えられる。

 

 

太子殿の聖徳太子像について

この11月22日に開扉され拝観できる2像、聖徳太子像と薬師如来像はともに極めて特異な像である。

まず、聖徳太子像から記述する。

 

太子像は太子殿の正面奥に安置され、やや距離がある位置からではあるが、正面からよく拝することができる。

手と顔しか見えない像である。というのも衣冠束帯姿というのであろうか、本物の冠と衣をまとっているからである。

着物を着ていることと、やや下ぶくれで目鼻立ちが強くあらわされている面相から人形のようにも感じる。しかし一方、像高150センチほどとやや等身大より小さめであるにもかかわらず、若々しい力のようなものが感じられて、実際より大きな像のようにも思える。

 

さて、この像は衣をとると、当時の貴族の下着の姿でつくられているそうだ。そして、衣は天皇が即位式で用いたものを下賜されるというならわしになっているとのことで、広隆寺には何代も前の天皇からの衣服が保管されているという。現在聖徳太子像が身に着けている服は、今の天皇から贈られたものなのだという。

1994年、服が下されるにあたって、像の彩色の補修が行われることになった。この時首の矧(は)ぎ目が弛んでいたのではずしてみたところ、像内の内ぐり部に極めて丁寧に金箔が貼られていることが判明した。さらに調査と修理が進められ、像内から墨書銘および納入品があることがわかった。また、腕までも中がくられて金箔が貼られていることがわかった。平安後・末期時代の像で内ぐり面に漆箔をほどこす例は複数知られるが、これほどまでに丁寧に像内を荘厳した像は他にはない。極めて面白い作例であると知られた。

 

 

聖徳太子像の銘文と納入品について

像内銘文は極めて長文で、年、願主、仏師、願文、結縁者のすべてが整然と記される。

1120年、願主は比叡山の僧・定海、作者は仏師僧頼範、願文は長文であるが、要するに聖徳太子への信仰と往生を願う気持ちが書かれる。

仏師の頼範については、他に知られる作品がない。この平安時代後・末期時代に活躍した仏師の中には頼助のように「頼」の字がつくものがいるが、関係の有無等不詳と言うほかない。

結縁者の最後に漆工師源時定、金物工時貞、玉工清原末国の3名が書かれる。漆工は下地の漆塗りを、金物工は納入品の月輪の制作を担当した職人と思われる。その次の玉工だが、この像は裏側から鉱物を挿入して目をあらわしている。これはきわめて珍しい瞳のつくりであるが、その制作にあたった職人であろう。

 

納入品は3種あり、ひとつは月輪(がちりん)である。

直径約14センチの銅製の円板で、観音と聖徳太子の前世の人物といわれるインドの勝鬘夫人、中国の南岳大師の姿を線刻し、鍍金する。これが像の胸のところにくるようにつけられていた。

ほかに細字の経典が2巻と小箱。小箱には布、土、木などの断片が納められていた。これらは銘文によれば四天王寺、橘寺、法隆寺から集められた聖徳太子ゆかりの品々で、太子が着用したと伝える布の一部や仏像、基壇、棺などの一部ではないかと考えられるものという。

このような品々を像内に納入することで、太子の木造に息が吹き込まれ、霊性が確保されると当時の人は考えたのである。

 

 

霊宝殿の薬師如来像について

霊宝殿に入って左側の壁に小ぶりの厨子が置かれている。普段は閉じているが、聖徳太子像が開扉される11月22日にのみこの厨子も開帳される。霊宝殿内は明るく、正面からよく拝観できる。

厨子は簡素なものだが、2重になっている。きわめて厳重な秘仏であることがうかがわれる。中には像高1メートル弱の薬師如来立像が安置されている。

 

この像には、広隆寺金堂本尊という伝承がある。

現在広隆寺には金堂はない。しかしかつてあった金堂の本尊であったのだという。

この像の左右には等身大の日光、月光菩薩像ならびに像高各120センチ前後の十二神将像が並んでいる。矢の筋を確認する安底羅大将像など素晴らしいできばえだが、これらの像は11世紀後半、仏師長勢の作とされる。長勢は定朝の弟子で、定朝没後は仏師の第一人者として位は法印へと登り(この種の位としては極官である)、その門流が円派となってゆく。

薬師像はこうしたそうそうたる諸像を脇に従えているわけで、なるほど旧金堂本尊との伝承もうなずける。

 

すでに述べたように、9世紀の『実録帳』の金堂仏像の項に「霊験薬師仏檀像」とある。その像との関係をどう考えるべきであろうか。

まず、この伝金堂本尊像は彩色像で、一般的に言う「檀像」ではない(ただし「檀像」の定義もなかなか難しいものがあるが)。また、『実録帳』の像は「居高」とあり、坐像だったようだ。

こうしたことから、この像が「実録帳」の霊験薬師仏と同一とは言えない。しかし『実録帳』の像は伝来していないことから、いずれかの時期に(1150年の火災?)元の本尊が失われて、その後にこの薬師像が本尊となったということであろうか。

 

 

薬師如来像の印象

この金堂本尊との伝承のある薬師像は、一般の薬師像とは似ても似つかぬ、極めて珍しい像容をしている。

左手は前に出して薬壷を持つ。しかし薬師像らしいのはそれだけで、全体としては吉祥天のような天部像の姿なのである。

髪は円錐形の突起のようになり、その後ろで低く結ってなだらかに下がっている。この突起はよりしろを思わせる。眉は長い弧を描いて極めて美しい。目は細く長く、わずかに見開く。目、鼻、口は接近し、特に口は小さく、上下にひげが書かれる。体に対して頭部は大きい印象である。

よく見る吉祥天像などと同様の中国風の服を着る。襟元および膝を見ると、緑の服の下に赤い服を着ているが、袖を見るとさらに重ね着しているようにも感じる。その上に大きめの条帛をつけ、肩からは天衣を(ただし下までは下がらず途中で切れているようなのが不思議だが)、足下には裙がぽってりと足にかかり、足は沓をはいているようだ。

 

像の彩色がまたすごい。髪の青、顔の肌色、服の赤や緑、天冠台や衣の裾、また散らされている模様の金色が極めてよく残る。おそらく長い間厳重な秘仏であったのであろう。

一木造で、両手先を除き一材から彫成しており、内ぐりもない古様な構造の像である。

薬師像でもあり、天部形でもあり、条帛や天衣など菩薩像の要素ももち、霊験像として神仏習合の像でもあるとも思われる。たいへん珍しく、また不思議な像である。

 

 

さらに知りたい時は…

『古代寺院の生き残り戦略』、上原真人、柳原出版、2020年

『仏像の秘密を読む』、山崎隆之、東方出版、2007年

『日本彫刻史の視座』、紺野敏文、中央公論美術出版、2004年

「裸形着装像の成立」(『Museum』589)、奥健夫、2004年4月

『廣隆寺史の研究』、林南壽、中央公論美術出版、2003年

『平安彫刻史の研究』、伊東史朗、名古屋大学出版会、2000年

『調査報告 広隆寺上宮王院聖徳太子像』、京都大学学術出版会、1997年

『週刊朝日百科 日本の国宝』015、朝日新聞社、1997年6月

『薬師如来像』(『日本の美術』242)、伊東史朗、至文堂、1986年7月

 

 

仏像探訪記/京都市

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