即成院・戒光寺・泉涌寺の仏像

  聖衆来迎の群像と宋風の仏像

住所

京都市東山区泉涌寺山内町28(即成院)

京都市東山区泉涌寺山内町29(戒光寺)

京都市東山区泉涌寺山内町27(泉涌寺)

 

 

訪問日 

2014年10月4日

 

 

この仏像の姿は(外部リンク)

即成院・阿弥陀如来と二十五菩薩

戒光寺ホームページ

御寺泉涌寺・文化財・施設

 

 

 

拝観までの道

即成院(そくじょういん)、戒光寺、泉涌寺(せんにゅうじ)は、最寄り駅はJR奈良線・京阪本線の東福寺駅である。泉涌寺まで徒歩15~20分。

東大路通(駅の南で線路と立体交差している)に出て北東方向に行き、交差点「泉涌寺道」で右折(東へ)、泉涌寺道という名前のついた道を進んで突き当たりが泉涌寺である。

 

即成院と戒光寺は泉涌寺の子院で、泉涌寺道の途中にある。

即成院の阿弥陀如来、二十五菩薩、如意輪観音像は、お堂の奥につくられた耐火のスペース(内陣)に安置されていて、拝観には事前連絡必要。特別拝観料500円。

お寺のホームページを見ると、拝観不可の日にちなどていねいなご案内がある。

 

 

即成院と仏像について

「泉涌寺道」交差点から泉涌寺道に入って300メートルくらい行くと、泉涌寺の総門がある。即成院はそのすぐ手前左側。東福寺駅から徒歩約10分。

 

もと伏見寺といい、開いたのは藤原頼通の子、俊綱である。母の出自が低かったためか養子に出され、橘姓を名乗った。摂関家出身でありながら高位には上らなかったが、和歌、音楽などに造詣が深い文化人であった。彼の伏見の山荘は庭園の美しさで知られ、多くの貴族がここを訪れたというが、火災になってしまう。その数ヶ月後、俊綱はつくらせていた来迎の阿弥陀と菩薩の群像ができあがるのを待たずに死去。子の家光も完成させることができず、家光の妻がようやく供養した。これらは伏見の山荘の西の端のお堂にまつられたという。こうした記録から俊綱が亡くなった1094年から程なくして像は完成したと推測できる。

作者は不明。しかし造像の経緯から、名だたる仏師の作であったろうと思われる。

定朝晩年の平等院鳳凰堂本尊の制作から約40年後ということになるので、定朝から2代あとの世代の仏師と考えられる(院助、円勢の活躍期)。

 

後世、その場所には伏見城(第一次)が建設されることになり、寺は移転を余儀なくされる。江戸時代にはそこからあまり遠くない深草のあたりにあったらしいが、近代初期の廃仏の時期以後再び流転し、最終的に現在の場所に安住の地を見いだしたのは20世紀に入ったころという。

 

俊綱発願の聖聚来迎群像は、こうした転変を経つつも今も即成院の本尊としてまつられているが、二十五菩薩中当初像は10躰のみとなり、残りは江戸時代の作にかわっている(もっとも、当初も25躰という数であったかどうかは今となってはわからないのだが)。

また、中尊の半丈六の阿弥陀如来像は、本来の一具の像ではないらしい。むしろ10躰の像よりも古い像であるかもしれない。もとの像はいずれかの時代に失われ、別の像が移されてきたといったことが想像されるが、これも詳細を知る手だては失われている。

そうした変動はあるが、聖聚来迎のありさまを立体であらわした作例として極めて珍しい。

 

 

即成院の諸像の印象

阿弥陀如来、聖聚来迎像はお堂の奥につくられた耐火のスペース(内陣)に安置されている。事前連絡が必要である(特別拝観)。

 

中央の阿弥陀如来像は定印を結ぶ。脇には観音菩薩と勢至菩薩が跪座で従う。そしてその左右にさまざまな姿をした来迎の菩薩像がならんでいる。横に3躰ずつ並び、それがひな壇のようにして4列になっているので、左右12躰ずつとなり、合わせて24躰、観音・勢至像を入れると26躰となり、二十五菩薩なら1躰多い。これは、向かって左手前に如意輪観音像がひそかに(?)加わっているためである。この像のみ若干小ぶりで、とても美しい顔、姿の2臂の如意輪観音像である。

 

来迎の菩薩像には寺伝による名称を持つが、別に「左1号像」などと無粋な名称で呼ばれることもある。

それぞれ像高90センチくらいの坐像、つまり等身大よりもやや大きめ。その大きさの像がこれだけの数並んでいるのだから、とにかく圧倒される。しかし残念なことに、数としては江戸時代に後補された像の方が多い。

平安期の像とあとの時代の像は、名前に色分けするなどしてわかるようにしてくださっているが、それを見るまでもなくつくりの丁寧さや技量の差は一目瞭然で、もちろん平安仏の方が断然すばらしい。脇侍のようにして従う観音、勢至菩薩像も、観音像(向かって右側)の方だけが平安仏である。

 

来迎の菩薩像は、かなり狭いところにぎゅっと詰めて座っている。

もちろん本来の安置状況はわからないが、各像の脚部は小さめにつくられているので、もともとそれほど広いスペースでないところに安置されることを想定してつくられているとみていいだろう。ただ、前2列まではよく見えるが、それよりも上の段にすわる像はよく見えないのが残念である。

 

中尊に向かって右側の前列中央にすわり、篳篥(ひちりき)を手に持つ像は、寺伝では獅子吼菩薩である。やや体を反らし、歌っている様子である。上半身はゆったりと広げ、天衣を右肩から外し、右足はかかとまで衣にくるんでいる。生き生きとした姿が印象的である。

向かって右側前列の鼓を持つ大自在王菩薩像、笛の白象王菩薩像もそれぞれ動きのある姿をよくあらわしているが、奏でる楽器の特性に応じてなのか、足の角度にも変化をつけて面白い。

 

観音菩薩像は蓮台をささげる静かな姿が魅力的である。すました顔つきの像で、別につくった天冠台が失われているためか、髪の筋が強調され、たいへん美しい。

これら当初像は木寄せが細かく、小さな材を積み重ねるようにして用いている(一方中尊像は木の寄せ方が単純)。

 

戒光寺
戒光寺

 

戒光寺(丈六戒光寺)について

即成院の門を出てすぐ左の泉涌寺総門を入り、まもなく左側に見えてくるのが戒光寺である。即成院と同じ泉涌寺子院。

特に拝観料は設けられていず、自由に拝観できる。(ろうそく代、線香代それぞれ50円)

 

即成院もかなりあちこちと移転しているが、この戒光寺も同様で、創建は猪熊八条というから今の京都駅の西側の方だったようだ。その後三条鴨川を経て、江戸時代初期に今の場所に移った。

創建は鎌倉前期、入宋経験のある曇照浄業という律僧による。彼は1228年に帰国し、1233年に再度入宋するが、その間にこの寺を創建したという。本尊は創建時以来の像と考えられているが、一見して日本の他の仏像とはおもむきが異なり、エキゾチックな雰囲気をもつ。いわゆる宋風の仏像である。

 

鎌倉時代には中国の影響を受けた新様式の仏像が流行する。それには次の3の流れがあった。

第1に、源平の合戦期に焼かれた南都の再興に際して中心的役割を担った重源がお堂や仏像に宋風を取り入れた。快慶による兵庫・浄土寺の本尊や東大寺南大門の石造獅子などがこの時期のものである。

第2に、俊芿(しゅんじょう)ら入宋僧らによる中国の仏教と文物を移入する。

第3としては、鎌倉に禅宗の寺院が登場し中国から禅僧が招かれ、それにともなってさまざまな文物が流入した。

曇照による宋風を強く持つ像の造立は、このうち第2の流れの中に位置づけられる。俊芿の帰国後に曇照は入宋しているのだが、曇照が南宋で学んだ師である鉄翁守一は俊芿が師事した如庵了宏の弟子という関係で、ふたりは法の上で近いところにあったことがわかっている。

 

 

戒光寺の釈迦如来像について

像高は約540センチの立像。丈六像を本尊とするということで、丈六戒光寺と称しているのだろうが、実際にはほぼ1丈8尺の大きさの像である。

 

拝観は外陣からとなるが、5メートルを越える立像だけあって、迫力がある。

肉髻は低く、螺髪は大粒。髪際はカーブする。

やや四角張った顔つき。顔はやや下を向いて(やや猫背)、拝観者と目があう。玉眼がさらに像を生き生きしたものにしている。

目と眉は接近し、目は切れ長に、頬はあまり抑揚なく、鼻の下や口は小さめにまとめる。

衣の襞も闊達だが、上半身はあまり抑揚が感じられない。

下げた左手はまっすぐでなく、斜め下に下げて、動きを感じさせる。手には縦横にしわを強く刻み(手相)、また指は長く、右手指がわずかに曲げられている様子にも心惹かれる。また、爪を長く伸ばしているところも、宋風の仏像の特色である。

 

泉涌寺楊貴妃観音堂
泉涌寺楊貴妃観音堂

 

泉涌寺の楊貴妃観音像

戒光寺を出て左(東南)へ200メートルほど行くと道が2つに分かれているので、右へ、やがて泉涌寺の拝観入口に着く。

拝観料は500円。

入ってすぐ左側に進むと楊貴妃観音堂がある。

 

泉涌寺は、平安時代につくられた前身寺院があり、仙遊寺と呼ばれていたらしい。

鎌倉時代、俊芿上人が復興し、霊泉が湧いたことで泉涌寺と改名、天台・真言・禅・浄土の四宗兼学の寺として宋の仏教寺院にならった伽藍がつくられた。

 

楊貴妃観音堂の本尊である楊貴妃観音は、俊芿の弟子の聞陽湛海によって1230年に日本にもたらされた南宋の仏像である。聞陽は何度も入宋し、師がめざした厳格な中国風の仏教、寺院の完成のために努力を重ねた。

楊貴妃観音像は当初は楊柳観音像と呼ばれていたようだ。江戸時代以後、その美しさから玄宗皇帝が亡き楊貴妃を偲んで造立したという伝承が付加されたものらしい。

 

像高110センチ余の坐像。

頭と体の中心部は一材から彫り出すが、それに面相部や背中などをはぎ付けてつくっているらしい。

顔は鼻筋がよく通り、目は伏し目がちで口は小さい。ほおはあまりはらず、すらりとさわやかな印象である。髪の際は盛り上げて、そこに豪華な冠をつけるがこれは後補。その裏側には高いまげが立っている。

なで肩で、上半身は高く、脚部は小さい。腹に渦を巻くようにして結んだ紐を描いていることと、両膝に衣の先がかかっているのが、日本の彫刻にない特徴となっている。

神奈川・清雲寺の滝見観音像、兵庫・法恩寺の菩薩坐像(兵庫県立歴史博物館寄託)とともに、中国・南宋時代の仏像彫刻の代表例である。

 

堂内で拝観できるが、拝観位置からはやや遠いので、一眼鏡のようなものがあるとよい。

 

 

さらに知りたい時は…

「楊貴妃観音像の〈誕生〉」(『アジア遊学』132)、西谷功 、2010年4月

「定朝第三世代の作風に関する一試論」(『鳳翔学叢』5)、淺湫毅、2009年3月

『聖地寧波』(展覧会図録)、奈良国立博物館、2009年

『泉涌寺』(『新版古寺巡礼27)、淡交社、2008年

「即成院阿弥陀迎接像について」(『美術史学』28)、井上大樹、2007年

『藤原道長』(展覧会図録)、京都国立博物館、2007年

『日本彫刻史論叢』、西川杏太郎、中央公論美術出版、2000年

『鎌倉大仏と宋風の仏像』(『朝日百科 日本の国宝 別冊』7)、朝日新聞社、2000年

「鎌倉時代前期における宋代美術受容の一形態」(『Museum』525)、金子啓明、1994年12月

『院政期の仏像』(展覧会図録)、京都国立博物館、1991年

「宋風彫刻雑感」(『Museum』295)、西川新次、1975年10月

 

 

仏像探訪記/京都市