六波羅蜜寺の平安仏
空也と後継者によってつくられた仏さま
住所
京都市東山区五条通大和大路上ル東
訪問日
2008年11月17日、 2023年6月8日
この仏像(地蔵菩薩立像)の姿(外部リンク)
拝観までの道
最寄りの駅は京阪本線の清水五条駅で、駅から東北東に10分弱。
京都駅からは駅前(烏丸口=北口)のDのバス乗り場から100系統、206系統の市バスで「清水道」下車、西へ約7分。
南北朝時代の美しい本堂の右手奥に2022年5月にオープンした新宝物館(令和館)がある。
拝観料
600円
お寺のいわれ
六波羅蜜寺の前身は、空也(くうや、こうや)が10世紀ながばにこの地に開いた西光寺である。
空也の死後まもなく作られた伝記である『空也誄(るい)』によると、903年に生まれ、21歳頃自ら得度して空也を名乗った。諸国遊歴後京に戻り、人々に念仏を勧め、「市の聖」と呼ばれた。その後比叡山で正式に大乗戒を授かり、光勝という名を受けるが、結局この名を用いず、空也で通すことになる。
40歳代後半に観音、梵天・帝釈天、四天王像を造り、東山に西光寺を開き、また大般若経の書写を志した。972年に西光寺で没したという。
彼の信仰の中心は阿弥陀と観音である。このことと、比叡山で受けた「光勝」という名を用いなかったということの間には関係があるかもしれない。「光勝」は、七仏薬師が住する七仏国土中の「東方光勝世界」に由来すると考えられる。天台においては薬師仏は大変重要な仏で、延暦寺の根本中堂の本尊も薬師である。しかし空也の信仰は阿弥陀、観音を中心としたものであったために、彼にとっては違和感ある名前だったのであろうか。
このように考えると、空也の活動および空也草創期の西光寺は天台と一線を画していたと思われる。
空也の死後数年をして、西光寺に中信という比叡山の僧が入り、寺名を六波羅蜜寺と変更した。それ以後はこの寺は天台の別院として発展していく。
ところで、六波羅蜜とは仏教の6つの実践徳目であるが、同時に六波羅は地名でもあるらしい。地名に仏教の言葉をかけてつけられた寺名ということであろう。
ではその「ろく原」という地名はどこから来ているかというと、東山山麓の「麓原」からとも、「髑髏(どくろ)の原」から転じたものともいう。なぜ髑髏の原かといえば、この地が平安京の東の外側にあって、墓地であったからである。
平安京の西半分はもともと湿地帯で、人口は次第に東半分に集中し、やがて町は都の枠を超えて東へと広がっていった。六波羅蜜寺があるあたりは、西から広がってきた町と市外との境であり、人々の生活の場と葬送の地の境、つまりこの世とあの世の境界として、宗教上重要な位置を占めることになったのであろう。このような場所ゆえに、やがて六波羅蜜寺では地蔵信仰が盛んになっていくことになる。
このように六波羅蜜寺には、前身寺院・西光寺を開いた空也の観音信仰、寺を受け継ぎ発展させた中信の天台=薬師信仰、そしてその後の地蔵信仰が積み重なっている。
なお、現在は六波羅蜜寺は真言宗寺院である。また、近世以後は観音札所として観音信仰が再び盛んとなり今日に至っている
拝観の環境
照明等工夫されており、大変よく拝観できる。
薬師如来像と四天王像について
空也が造像した観音、梵天・帝釈天、四天王像のうち、梵天・帝釈天像は現存しないが、六波羅蜜寺に残る秘仏の本尊十一面観音像および四天王像(ただし増長天像のみ鎌倉時代の補作)はこの時の像であると考えられている。ご多分にもれず六波羅蜜寺もたびたびの火災にあっているが、それをくぐりぬけて今日まで伝来したことは奇跡のようである。
宝物館1階に薬師如来坐像とそれをとりまいて四天王像が安置されている。この四天王像は、10世紀なかばに空也によって造られた像と考えられている。
平安初期の像、たとえば東寺講堂の四天王像や興福寺北円堂の四天王像に比べると、量感、動きともに抑えめになり、衣の襞(ひだ)や面相は彫りが浅くなっている。平安中・後期の和様に向う途上である10世紀彫刻の特徴がよく出ているといえる。顔は小さく、体の動きはひねりが入っているわりに前からの印象は平板で、やや鈍重でもある(持国天像は東寺講堂の持国天像の体勢に非常に近いが)。中世の補作である増長天像はよく他の三作に合わせているが、立ち姿や顔の表情に鎌倉彫刻らしい写実性が出ている。
像高は170センチ前後で、ヒノキの一木造である(増長天のみ寄木造)。
その中央に座る薬師像はなかなかユニークな像で、空也の死後、中信によって天台化した際に造られたものかと考えられている。10世紀後半の作ということになる。
像高は約160センチと大型の坐像で、顔は大きく、ニット帽のような頭、独特な目・口の形は印象的である。地髪と肉髻の境がくっきりとしていないのはいかにもこの時期の作という感じがする。衣の線は力強い。また、薬壷をとる左手が右を向くのは比較的珍しいが、滋賀の善水寺など天台寺院に多く見られる形だそうだ。
ヒノキの寄木造である。寄木造としては最初期のもので、仏教彫刻史の流れの中で大変重要な位置を占める。技法としてまだ成熟する前のものであるためか、内ぐりは深くはない。
地蔵菩薩立像について
宝物館の2階に、大変美しい地蔵菩薩立像が安置されている。像高は150センチ余りとやや小さめの等身大の像であるが、存在感があるので大きく見える。
頭は小さく、体、特に下半身が長い。左手に髪を持つという特異な姿である。下半身の衣は斜めに美しく流れるが、よく見るとなかなか鋭い線で、肩のあたりの衣の襞(ひだ)も意外に深い。
ヒノキの割矧(わりは)ぎ造だが、内ぐりは大きくない。11世紀前半の作と思われる。
ところで、この像のことかと思われる地蔵菩薩像のことが『今昔物語集』の中にある。すなわち、但馬(現在の兵庫北部)の前の国司、源国挙(くにたか)が地蔵の霊験によって地獄より甦り、その地蔵の姿を定朝に刻ませて六波羅蜜寺で供養した。等身、皆金色の像で、現在もこの像は六波羅蜜寺にあるという話である(『今昔物語集』巻17、第21話)。
国挙は実在の人物で、11世紀前半に但馬国司の地位にあり、1015年に出家(能忍法師)、1023年に没している。六波羅蜜寺に伝わる地蔵菩薩立像の造像がこの年代であるとして様式的にも矛盾はなく、また、それは定朝の前半生の頃となり、寄木造の完成までの途上にある像と考えれば内ぐりの小さな割矧ぎ造という構造も説明がつかないでもない。何よりこの像の並々ならぬ優美さは、名匠定朝の作ならではと感じさせる。
しかしながら、『今昔物語集』にある地蔵菩薩像は「皆金色」であり、この像は彩色仕上げなので一致しない。伝定朝作の仏像中、この像は定朝真作である可能性がある像と言ってよいと思うが、残念ながら確実に定朝作ということはできない。
光背もとても美しいが、像とはサイズが合わず、後で補われたものである。
本尊のご開帳について
空也によってつくられたと考えられている十一面観音像は、本堂内陣中央厨子中に秘められ、十二年に一度、辰年に開帳される。時期は11月ないし12月で、前回(2012年)は11月3日から12月5日にかけてご開帳が行われた。
なお、2008年、2009年にも西国三十三所の特別開帳が行われるなど、辰年以外に開帳された例もある。
その他(檀王法林寺について)
六波羅蜜寺の最寄り駅である京阪の清水五条駅から北に2駅行った三条駅からすぐのところに、檀王(だんのう)法林寺というお寺がある。浄土宗寺院で、創建は江戸初期。本堂は江戸後期のもの。
毎月1回初旬の1日(午前中)を「本堂参拝日」としている。それ以外でも事前連絡で拝観可。できない日もあるので、ホームページをチェックするとよい。本堂拝観料は200円。
*檀王法林寺ホームページ
本尊は阿弥陀如来立像。向かって左側の間に安置された阿弥陀如来坐像は平安末期から鎌倉時代の作。白河法皇によってつくられた蓮華蔵院の旧仏と伝えられ、市の指定文化財となっている。定印を結んだ穏やかな仏像である。
なお、このお寺は招き猫発祥の地のひとつで、本堂入ってすぐのケースに全国から奉納された招き猫が陳列されている。
さらに知りたい時は…
「国宝クラス仏をさがせ! 16 六波羅蜜寺地蔵菩薩立像」(『芸術新潮』868)、瀬谷貴之、2022年4月
「調査報告 六波羅蜜寺の仏像」(『MUSEUM』620)、浅見龍介、2009年6月
『六波羅蜜寺の仏像』(展覧会図録)、東京国立博物館、2008年
『藤原道長』(展覧会図録)、京都国立博物館、2007年
「六波羅蜜寺(西光寺)創建期諸像について」(『美術史』160)、井上大樹、2006年3月
『浄土の聖者 空也』、伊藤唯真編、吉川弘文館、2005年
「六波羅蜜寺四天王像について」(『MUSEUM』559)奥健夫、1999年4月
『日本彫刻史基礎資料集成 平安時代 重要作品篇5』、中央公論美術出版、1997年
「六波羅蜜寺地蔵菩薩立像について」(『美術史学』6)、岩佐光晴、1984年3月
「六波羅蜜寺の天暦造像と十世紀の造像工房」(『美術史』113)、副島弘道、1982年11月