六波羅蜜寺の地蔵菩薩坐像

  運慶作か、鎌倉初期一木彫の名品

本堂横、令和館に続く小道
本堂横、令和館に続く小道

住所

京都市東山区五条通大和大路上ル東

 

 

訪問日 

2008年11月17日、 2023年6月8日

 

 

この仏像の姿(外部リンク)

六波羅蜜寺ホームページ・重要文化財

 

 

 

拝観までの道

六波羅蜜寺へは、最寄りの駅は京阪本線の清水五条駅で、駅から東北東に10分弱。

京都駅からは駅前(烏丸口=北口)のDのバス乗り場から100系統または206系統の市バスで「清水道」下車、西へ約7分。

 

 

拝観料

600円

 

 

仏像のいわれ

六波羅蜜寺の成り立ちについては、六波羅蜜寺の平安仏の項をご覧下さい。

 

地蔵菩薩坐像は、六波羅蜜寺宝物館の壁面に並ぶ仏像のほぼまんなかあたりに安置されている。

この像はもと寺内にあったという十輪院の本尊像で、近世資料に運慶とその子湛慶の合作との記述がある。

運慶は、時期は不明だが、みずから京都八条に地蔵十輪院という寺を造っている。この寺は運慶在世中の1218年に早くも焼けてしまった。湛慶との合作という伝承はともかくも、十輪院という名称が共通することから、この像はかつて地蔵十輪院にあり、その焼亡の際に救出されて地蔵信仰の寺であった六波羅蜜寺へと移されたのではないかとの推測がある。

また、慶派の仏像らしい写実性、充実感に加え、深く自在に波打つ衣の襞(ひだ)は大変すばらしく、これらを総合し、運慶作であると考えられるようになってきた像である。

 

 

拝観の環境

2022年に新宝物館(令和館)がオープンした。

地蔵菩薩像は宝物館2階に安置されている。

ガラス越しだが、近い距離でよく拝観でき、自在で力強い衣の流れが大変よくわかる。

 

 

仏像の印象

像高は約90センチと等身大か、等身大より若干大きめの像である。

彩色はあまりよく残っていないが、切金をつけるなど、本来はなかなか豪華な仕上げであったようだ。

面相は清々しく、バランスがとてもよい。全体的には静かな雰囲気で座るが、内面からはつらつさがにじみ出てくるようで、それに奔放な衣の流れが力強さを加える。本当にすばらしい仏像である。

 

実はこの像は一木造でつくられている。平安時代後期以後は、素朴な仏像では一木造のものもあるが、本格的なものは寄木造か、小像であれば割矧(わりは)ぎ造でつくられるのが一般的。従って、鎌倉前期のこの像が一木造でつくられているのは異例といえる。

寄木造の仏像は一木造のものに比べて内ぐりが大きくなり、木の部分はたいへん薄くなる。木という材質はとても重いものだが、大きく内ぐりすることで軽くなり、扱い易くなる。薄いところに刻むので衣の襞は浅くなってしまうが、その浅く優美な線は平安貴族の好むところでもあった。

ところが新時代を切り開いた運慶は、伊豆の願成就院の阿弥陀如来像にしても神奈川・横須賀の浄楽寺の阿弥陀三尊像の中尊にしても、木を厚く使って、強烈な存在感を放つ襞の流れを彫りだしていく。

もしこの像が運慶作であるとするならば、彼は合理的な寄木造を一度離れ、一木造の技法によって確かな存在感をもった木彫を試したいという強い衝動に突き動かされて本像を彫り上げたのかもしれない。

 

ところで、この仏像は面部を割矧いで、玉眼を入れている。鎌倉時代の仏像に玉眼が入っているのは別に珍しいことではなく、運慶も初期の作では円成寺大日如来像にしろ願成就院の阿弥陀如来像にしても玉眼を入れていた(願成就院像は面部が損傷し、現在は玉眼ではないが、もとは玉眼だったことが調査の結果わかっている)。

しかし、願成就院像以後は天部像などでは玉眼を使い続けるものの、仏・菩薩では玉眼を用いずに造ることが多くなる。迫力を必要とする像には玉眼を使い、人間をはるかに越えた存在である仏・菩薩ではあまりに生々しい玉眼を避けるという原則に運慶はたどり着いたと考えることが可能である。とするならば、玉眼を入れた菩薩像である本像は、願成就院像と同じ頃、すなわち運慶前半生の作ということになる。この説は、衣の襞の勢いが両像に共通することからも補強される。

 

一方、この像が運慶の個人的な造像であり、そのために一木造で造るという実験が行えたと考えれば、玉眼についても自らの仏・菩薩への不使用原則を適用しなかったのかもしれない。

そしてその場合、1196年を最後に記録から消える父・康慶(おそらくそれから遠からず没したか)の菩提を弔うための造像ではないか、また1197年に平安初期の一木造の名品である東寺講堂諸尊を修理しているので、それに触発されて本格的な一木造像に挑んだのではないかといった推測が成り立つ。もしそうであれば、運慶中期の作となる。

 

なお、膝のあたりに小さな内ぐりがされていて、地蔵菩薩の印仏が納められている(戦前の修理時に発見され、再び像内に納められた)。また、2008年の東京国立博物館での展示にあたってX線撮影を行ったところ、体の内ぐりの中に納入品があるのが確認された。ただし、像の厚みのために鮮明には写らず、形状が縦長の棒状あるいは円筒状であるなどのほか、詳しくはわかっていない。(本像は2017年に東京国立博物館で行われた「運慶展」に出品され、その際にCTによる調査が行われた。それにより、筒状に立てられて納入品の回りにはおびただしい紙類、巻物類と思われるものがぎっしり入っていることがわかったそうだ。)

 

 

その他

宝物館の2階にあがってすぐのところに、「南無阿弥陀仏」の念仏をあらわす6体の小さな阿弥陀仏が口から出て来ている姿が歴史の教科書でもおなじみの空也像が安置されている。横からも見ることができ、腰の曲がり具合などよくわかる。

本像の作者は運慶の子、康勝である。像内に墨書があり、「僧康勝」と花押(サイン)が書かれているという。当時の仏師の肩書きとして「僧」とのみ書くことは他にも多く例がある。

1212年作と考えられている興福寺北円堂弥勒仏台座銘や1232年に康勝が制作した法隆寺金堂阿弥陀像の光背銘文には「法橋康勝」とあるので、この空也像は彼が法橋のような位を得る以前、康勝初期の作であると推測できる。

 

宝物館にはこのほかにも鎌倉彫刻がいくつもあり、それぞれに見どころがある。

運慶とその子湛慶と伝えられる鎌倉時代の肖像彫刻は、もと六波羅蜜寺の十輪院で地蔵菩薩坐像の両脇に安置されていたものという。

弘法大師坐像は、快慶の弟子の長快の作と銘文からわかっている。六波羅蜜寺は16世紀末に真言宗に転じたので、それ以後移坐されてきた像と思われる。

 

 

さらに知りたい時は…

「運慶展X線断層(CT)調査報告」(『MUSEUM』696)、浅見龍介・皿井舞・西木政統、2022年2月

『運慶』(展覧会図録)、東京国立博物館ほか、2017年

「特集 オールアバウト運慶」(『芸術新潮』2017年10月号)

「六波羅蜜寺地蔵菩薩坐像について」(『仏教大学宗教文化ミュージアム研究紀要』9)、植村拓哉、2013年3月

『運慶』、山本勉ほか、新潮社、2012年

「地蔵十輪院と六波羅蜜寺 地蔵菩薩像」(『別冊太陽 運慶』)、浅見龍介、2010年12月

「調査報告 六波羅蜜寺の仏像」(『MUSEUM』620)、浅見龍介、2009年6月

『運慶にであう』、山本勉、小学館、2008年

『対決 巨匠たちの日本美術』(展覧会図録)、東京国立博物館ほか編、2008年

『六波羅蜜寺の仏像』(展覧会図録)、東京国立博物館、2008年

『講座日本美術史』1、岩波書店、2005年

『日本彫刻史基礎資料集成 造像銘記篇 鎌倉時代2』、中央公論美術出版、2004年

『運慶 その人と芸術』、副島弘道、吉川弘文館、2000年

『院政期の仏像』、京都国立博物館編、岩波書店、1992年

『運慶と快慶』(『日本美術全集』10)、講談社、1991年

 

 

仏像探訪記/京都市