樹敬寺と常教寺の仏像
基準作例の地蔵菩薩と美しい阿弥陀如来
住所
松阪市新町874(樹敬寺)
松阪市白粉町465(常教寺)
訪問日
2024年10月27日
この仏像の姿は(外部リンク)
松阪市 文化情報 ・木造地蔵菩薩立像<樹敬寺>
松阪市 文化情報 ・木造阿弥陀如来立像<常教寺>
樹敬寺について
樹敬寺(じゅきょうじ)は浄土宗寺院。松阪駅から西南へ徒歩約10分のところにあり、本居宣長の墓があることでも知られる。
寺伝によれば、鎌倉時代初期に重源上人が松阪の松ヶ崎に開いた不断念仏院が前身であるという。この念仏道場が南北朝時代の戦火で焼かれたのち、16世紀に敬誉上人という方によって再興されたが、この方が樹敬上人とも呼ばれていたために現在の寺号となったそうだ。蒲生氏が松阪の城下町を整備するにあたって、移転が命じられ、現在の地に移る。
その後、江戸時代中期の火災、また近代になって19世紀末の町の大火によって焼かれているが、そのたびに再建され現代に至る。
本尊は阿弥陀如来像で、向かって右側の間に馬頭観音像や地蔵菩薩像などが安置されている。近代の火災の前は境内にいくつもの子院や観音堂、地蔵堂が立ち並び、馬頭観音像は観音堂に、地蔵菩薩像は地蔵堂に安置されていたらしいが、それが今は本堂内に移されているということらしい。
馬頭観音像は、松阪市内の6寺院にそれぞれ置かれていた六観音の1体であるとのこと。
樹敬寺の地蔵菩薩像
地蔵菩薩像は、ご本尊に向かって右側、厨子中に安置される。像高約80センチの立像で、寄木造、玉眼。宝珠と錫杖(現状は杖になっている)を持つ。
1306年の作であることが玉眼のあて木に書かれており、造像年がはっきりとわかる像として大変貴重である。
本像は「踊り橋(踊橋)地蔵」とも呼ばれる。本寺の前身の不断念仏院をつくったとされる重源上人が亡くなったのが1206年であるので、その100回忌につくられたのが本像であり、その時に安置されたお堂のそばに踊り橋という名前の橋があったのでこの名前がついたとお寺では伝えている。
頭体のバランスがよい。顔立ちは謹厳だが、口もとが少しだけほころんでいるようにも見える。胸元はVの字に重ねた衣の上に袈裟を着けて、左の胸のところでつっている。右腕やお腹のあたりの衣のひだは変化が付けられている。
拝観は事前連絡必要。志納。結界の手前からの拝観となり、像までやや距離があるため、細部まで見るのは少し難しい。
常教寺について
常教寺は松阪駅から西南に徒歩15分。樹敬寺からは5分くらいのところにある。
浄土真宗寺院。
松阪市内の別の場所にあったものが江戸時代前期に現在地に移ってきた。
本堂の向かって右の間には千手観音像が安置されていたが、樹敬寺の馬頭観音像同様松阪六観音の1つだそうだ。
阿弥陀如来像はお堂の左奥の位牌堂に客仏として安置されていた。
これら千手観音像や阿弥陀如来像は事前連絡で拝観させていただくことができたが、本来は本堂の手前、左側の観音堂に安置されていた。筆者が訪れた2024年当時観音堂は建て替え中で、翌年(2025年)の前半までには完成し、千手観音像や阿弥陀如来像はそちらに戻る予定とのこと。
新しい観音堂はバリアフリーとし、いつでもお詣りできるようにと考えているというお話だった。
常教寺の阿弥陀如来像
阿弥陀如来像は像高約50センチの立像。寄木造。来迎印を結ぶ。鎌倉時代から室町時代にかけての作。
本来松阪市南西部の笹川町にあった地蔵堂に安置されていた像という。廃堂となり個人の方の手を経てこの寺に施入されたのだそうだ。個人というのはお堂の管理を担っていらした方であったのか、とても大切にされていたものとみえ、実に美しい姿を保っている。
肉髻は低く、螺髪の粒は美しく揃うが、ぎっしりと詰まってはいず、若干まばらにつくられている。最下段は少し下向きにつくられているようだ。
顔つきは優しく、穏やか、上品である。目鼻口は小ぶりにつくられ、小鼻も小さい。
胸はゆったりとつくられ、胸元の衣は少し複雑に変化をつけているが、煩雑というほどではない。下半身の衣は下へと美しいラインをつくって流れる。
全体にとてもよく整い、素晴らしい。
さらに知りたい時は…
『三重県史 別編 美術工芸 解説編』、三重県、2014年
『松阪の文化財案内』、松阪市教育委員会、 1990年
「松阪市樹敬寺の嘉元四年銘地蔵菩薩立像」(『三重の古文化』61)、松山鉄夫、1989年
→ 仏像探訪記/三重県